芸術の対象として豊かな表現で魅力的に描かれる地獄とワンパターンな天国 (3/3ページ)

心に残る家族葬

まさに人間は地獄の方が近い。

■堕落の誘惑、自然な墜落

源信もダンテも万有引力の存在は知らなかった。しかし地獄は堕落・墜落する場であり、天国・極楽は遥か上空・天上にあると想定されている。引力は知らずとも、物は下に落ちるのが道理である。天に唾を吐けば返ってくる。落ちるは容易く上がるのは難しい。倫理・道徳もそうである。善行が神=天国・極楽なら悪行は地獄である。落下する方が、地獄に堕ちる方が簡単なのはこれまた道理だ。故に人間は容易く罪を犯す。落ちる方が楽ではある、それでもほとんどの常識的な人間は落ちないように努力する。欲を抑制し、誘惑に耐え、天を目指す(善行を行う)という困難極まりない道を歩く。人間とは神と動物の間をたゆたう存在だとするパスカル(1623~62)の言葉は的確である。

その意味で、地獄絵が精妙でリアルなのは当然のことである。我々は地獄の方が近いのだし、常に垣間見えているのだから。いわゆる快楽に身を浸し極楽極楽と悦に浸ることはある。名誉を得て幸福を感じることもあるだろう。しかし結局それは、自分の欲を満たす「快楽」である。先述したように欲や執着から解き放たれた真の極楽ではなく、六道のひとつの天道にいるにすぎない。極楽・天国は我々のような欲深き衆生には遠すぎるのだ。


■この地獄の片隅で

絶対的な安心・平穏に満ちた極楽・天国絵を見ても精々が綺麗な花を愛でる程度である。しかし、 地獄絵には苦しみ、悲しみ、怒り・・ どうしようもないこの現実、人生への憤り、慟哭が伝わる。

恐山の賽の河原で、子を失くした親が、子のために石を積むのは極楽に比べ、地獄がリアルだからではないだろうか。なぜ子が極楽浄土で安心平穏に暮らしていると思えないのか。我々は、現実の苦しみ、悲しみを通じて地獄に抱いているからではないか。

人は地獄を知っている。地獄の片隅で生きている。それでも人は天を仰ぎ見る。いつかの未来、地獄絵に劣らぬリアルな極楽絵、天国絵が描かれる時が来ると信じたい。

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