歴代総理の胆力「桂太郎」(1)「ニコポン宰相」との異名 (2/2ページ)

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それらは、皆、個性が強かったが、祖父はその間にあって調整、彼らの意見対立を巧みにまとめ上げていったということのようだ」『歴史読本』(昭和54年12月号・新人物往来社=要約)

 陸軍を一貫して歩んだ桂が内閣を率いることになったのは、陸軍大臣を務めた直後であった。行き詰まった伊藤内閣のあと、山県が強く推しての総理大臣就任であった。その長期政権は都合第三次内閣まで続いたが、筆者の実績評価は功績六分、四分の失点とさせていただいている。

 第一次内閣は実に4年6カ月に及んだが、その発足時は「小山県内閣」のカゲ口があった。元老は一人も入閣せず、ほとんどの閣僚が山県の息のかかった官僚たちだったからだ。

 しかし、桂はリーダーシップを発揮してみせた。伊藤博文らの反対を押し切って「日英同盟」を締結、それまでのロシアとの二股外交にピリオドを打って、日露戦争に全力を挙げた。一方で奉天会戦、日本海海戦の勝利をもって講和に踏み切ってみせるなど、勇断を示したのであった。

 しかし、米国ポーツマスでの講和会議で日本が“戦勝国”であるのに賠償金なしで推移したことに世論が反発、ポーツマス条約締結反対の国民大会が開かれる一方、警察署、電車が焼き打ちにあうなどの暴動となり、死傷者600人近くが出る事態を招いたのであった。桂は初の「戒厳令」を施行する事態を招いてしまったのだった。

■桂太郎の略歴

弘化5年(1848)1月4日、長門国(山口県)萩城下の生まれ。ドイツ駐在武官、台湾総督を経て、第三次伊藤、第一次大隈、第二次山県、第四次伊藤の各内閣で陸相。53歳で首相。在任期間7年11カ月は歴代最長。大正2年(1913)10月10日。胃ガンのため65歳で死去。

総理大臣歴:第11代1901年6月2日~1906年1月7日、第13代1908年7月14日~1911年8月30日、第15代1912年12月21日~1913年2月20日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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