首級は本当に飛んだのか?日本三大怨霊のひとつ、平将門「怨霊伝説」の元ネタを紹介【前編】 (2/4ページ)

Japaaan

日本半国の領有を目指す新国家の樹立を宣言したのでした。

討ち取られた平将門。成田山新勝寺の絵葉書、昭和年代のもの。

当時、東国は朝廷から派遣された国司の圧政に苦しめられており、その解放を大義とした将門の新国家樹立を歓迎したのも束の間、即位からおよそ2か月で「新皇」将門は、宿敵である平貞盛(たいらの さだもり)と藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)にあえなく討たれてしまったのでした。

享年およそ30歳と言われています。

時は天慶三940年2月14日、後世「天慶(てんぎょう)の乱」と呼ばれる空前絶後のクーデターでした。

無念!再会できなかった将門の首級と胴体

さて、そんな非業の死を遂げた将門ですが、王道楽土の大望が志半ばに潰えた無念こそ将門が怨霊となった原因であり、将門の怒りを鎮めるために祀られたのが、東京都千代田区・大手町にある将門塚(しょうもんづか)と、同じく神田に鎮座する神田明神(かんだみょうじん)と言われています。

しかし、将門が死んだのは下総国豊田郡なのに、どうして東京都に祀られているのでしょうか。これまでその理由については定説がなく、今なお明確ではないようですが、その内の一説をざっくり紹介します。

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