長嶋茂雄と松井秀喜、栗山英樹と大谷翔平…プロ野球「師弟の絆」秘話

日刊大衆

写真はイメージです
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 チームのエースや主砲は当然、世界的大打者や二刀流さえも育成した球界の名伯楽たち。栄光への架け橋の道筋を辿る。

 プロ野球の“師弟関係”を象徴するのが、長嶋茂雄松井秀喜の熱い絆だ。甲子園での5打席連続敬遠事件で松井の才能を見抜いた巨人の長嶋監督は、1位指名の予定だった三菱自動車京都の伊藤智仁から松井の獲得に切り替える。4球団競合の中、見事に当たりクジを引いた長嶋監督は、自らの手で松井を大打者に育て上げると公言。二人三脚の育成トレーニング「4番1000日構想」が始まった。「長嶋監督の主な指導法はマンツーマンでの素振り。東京ドームでは練習前に個室を借り切り、遠征先ではホテルの部屋で、休みの日は監督の自宅でと、ひたすら素振りを続ける日々が続いたといいます」(スポーツ紙記者)

 実はこのとき、長嶋監督はひたすら松井のスイングの音を聞いていたという。「ブン」という鈍い音ではなく、「ビュッ」と鋭く風を切る高い音が出るまで、練習は続いた。「このマンツーマン指導は松井が巨人の4番打者になった後も、長嶋さんが退任するまで続いたといいます。松井が海を渡った後も、国際電話を通してスイングの音を聞いて、好不調を判断できたというから驚きです」(前同)

 盟主・巨人軍における、もう一つの“師弟伝説”は、一本足打法を生み出した荒川博と王貞治の関係だ。甲子園の優勝投手として鳴り物入りで巨人入りした王だったが、入団3年目でもいま一つ目が出なかった。そこで川上哲治監督が招聘したのが、大毎オリオンズで榎本喜八を首位打者に育てた名コーチの荒川博。荒川の指導で編み出されたのが一本足打法である。「当時の王さんは、どうしても突っ込む癖があった。それで詰まってしまう。その癖をなんとか直せないかと、右足を上げさせてみたというのが荒川さんの考えでした」(ベテラン記者)

 ここから、2人の血の滲むような猛特訓が始まる。ホームゲームのときは、まず王が荒川宅に行って素振り。2人で後楽園球場に入って、ゲームが終わるとまた、荒川コーチ宅へ。「合気道をやっていた荒川さんは、打撃の基本に合気道における心・技・体の精神を置いていた。日本刀を振って、天井から吊るした半紙を斬るという型破りの特訓で、筋力に頼らず、体の芯から込み上げる力をバットに伝える方法を伝授しようとしたんです」(前同)

 その後、868本塁打という前人未到の大記録を打ち立て、“世界の王”となったのはご存じの通りだ。

■イチローを世に出した仰木彬

 日本プロ野球、MLB通算4257安打でギネス世界記録に認定されている“安打製造機”ことイチローを、世に出したのはオリックスの仰木彬監督だった。

 イチローは前任者の土井正三監督に疎んじられ、2軍生活を余儀なくされていた。そんなイチローを仰木監督が1軍に昇格させ、登録名を「鈴木一朗」から「イチロー」に変更したとき、伝説が始まったのだ。

「仰木監督はイチロー独特の振り子打法をいじらず、“そのままでいい”と1軍に送り出した。イチローも仰木監督の信頼に応えて結果を出した」(専門誌記者)

 まさに、師弟の絆。イチローをポスティングで快くメジャーに送り出したのも、仰木監督ならばこそのことだったのだろう。

 栗山英樹監督と大谷翔平の関係も、仰木監督とイチローの関係に似ている。「栗山監督の功績は、なんと言っても大谷の二刀流を認めたこと。プロ入り当初から、野手か投手かどちらかに専念させるべきという声が殺到したが、栗山はガンとして受けつけず、“大谷を二刀流選手として育てる”という方針を貫いたんです」(日本ハム担当記者)

 日ハムでの二刀流の成功がなければ、今日の「メジャーでの二刀流」もありえなかった。そういう意味で、栗山は「二刀流の生みの親」とも言える存在だ

■野村克也は古田敦也や田中将大を育て上げて

 人材育成の名手といわれる野村克也元監督が、手塩にかけて育てた弟子の最高傑作が古田敦也といわれる。「もともと、野村監督は大卒でメガネをかけた古田の獲得には乗り気ではなかった。ただ、入ってきてからは常にベンチの隣に座らせて、野球学を伝授していました」(スポーツ紙デスク)

 毎日のようにノムさんから浴びせられる「ボケ、バカ、お前がいるから負けるんや」という罵倒に耐え、古田は大きく成長したのだ。

 野村のもう一人の弟子、マー君こと田中将大の場合は、それほど罵倒されることはなかったという。「高校を出たばかりだから、あんまり厳しいことを言っても、という気持ちがあったのかもしれません」(楽天担当記者)

 1年目から先発で起用し、最初の数試合なかなか勝てなかったときも、「2軍に落とす気はなかった」という野村監督の期待に応えて、1年目から11勝を挙げた田中。今でも野村の教えが身についているという。

 たとえば、“原点能力”。これは「投球で困ったら、打者の目から一番遠い外角低めに投げる」という考え方である。「メジャーでは外角低めでも簡単に打たれますが、とは言うものの、常にそこに投げられる能力だけは身につけておきたい」と田中はインタビューで答えている。

 長嶋茂雄と阿部慎之助も師弟関係にあたる。01年、ドラフト1位で巨人に入団した阿部だが、当時の監督は長嶋茂雄だった。その前年、チームを日本一に導いた村田真一がいながら、新人捕手を抜擢するのは巨人にとって大きな決断だった。「打てる捕手を欲しがった長嶋さんの思いが、阿部の1軍定着を後押ししました」(巨人軍関係者)

■巨人の歴史に残る大投手に

 藤田元司監督の下で大きく成長したのが平成の大エース、斎藤雅樹だ。89年、いま一つ伸び悩んでいた斎藤が藤田から声をかけられた。「今、オーバースローで投げているが、君の腰の回転はサイドスローに向いている。思い切ってサイドスローに変えたら、うまくいくんじゃないか」

 この藤田のひと言で斎藤が覚醒。巨人の歴史に残る大投手に成長したのだ。

 藤川球児星野仙一監督の下でストッパーとして頭角を現した。「阪神監督就任当時、星野は杉下茂氏を通じて、藤川にフォークを教え込もうとしたんです。杉下氏はフォークを投げる前提として、ストレートを磨いてこいと藤川に厳命。これが、“火の玉ストレート”と呼ばれる剛速球の誕生につながったわけですから、何が幸いするか分かりませんね」(在阪スポーツ紙記者)

 そして、今を時めく坂本勇人の売り出しを後押ししたのは原辰徳監督だった。最初は我慢しながら使って、使われ続けていくうちに成長していったタイプだ。「08年、坂本は松井以来となる10代でのスタメン入りを果たしました。二岡智宏のケガもあって、遊撃手として使われ続けたが、夏場には打率が2割2分まで下がるなど、2軍落ちのピンチがあった。だが、辛抱強く使われるうちに全試合スタメン出場を果たし、打率.257、8本塁打、43打点の成績を残し、1軍に定着したんです」(担当記者)

 それからの活躍は、ご存じの通りである。

 今日のプロ野球の隆盛を生んだ数々の師弟の絆――。さらなる師匠と名手の誕生に期待したい。

※一部敬称略

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