歴代総理の胆力「近衛文麿」(1)総理就任時の期待度は高かったが… (2/2ページ)

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そうした中で、満州事変で関東軍の求めに応じ、独断で朝鮮軍の一部に国境を越えさせて、関東軍支援をしたとし、「越境将軍」と言われた。独断の越境は天皇の奉勅命令がない中での出兵ということになり、「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」という危機にも立った。在任わずか4カ月の短命で、名前をもじり「なにもせんじゅうろう内閣」との“異名”も残している。

 こうした経緯をたどる中、「二・二六事件」のあと、元老・西園寺公望(きんもち)の奏薦で組閣大命が下ったのが近衛文麿であった。時に、昭和12(1937)年6月、「五摂家」筆頭近衛家の若殿でもある近衛は、45歳の若さであった。一高、東大から京大へ転じた秀才コースを歩み、貴公子然とした風貌と相まって、国民、大衆から歓呼の声で迎えられたものであった。当時の評論家・歴史学者として名の高かった徳富蘇峰をして、「積雲はれ来りて、時天白日を望む心地」とまで言わせ、期待の度合いもまた大きかった。

 しかし、この期待はものの見事に裏切られ、結果的には日本を大戦の泥沼に引きずり込んでしまった。都合3度の内閣は、持ち前の性格の弱さからズルズルと軍部に押され続けることに終始した。ついには、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)からA級戦犯として逮捕状が出されたことから、青酸カリによる服毒自殺で人生の幕を閉じてしまったのだった。

■近衛文麿の略歴

明治24(1891)年10月12日、飯田橋生まれ。京都帝国大学在学中に世襲で貴族院議員。貴族院議長、訪米してフーバー、ルーズベルトの前・現大統領らと会見。大政翼賛会総裁をはさみ内閣組織。総理就任時、45歳。昭和20(1945)年12月16日、毒物により自殺。享年54。

総理大臣歴:第34代1937年6月4日~1939年1月5日、第38・39代1940年7月22日~1941年10月18日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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