比叡山から鎌倉新仏教の開祖が数多く生まれた理由とは (2/3ページ)

心に残る家族葬

このように奈良仏教が自分のための行「自利行」であるのに対して、「自利行」とともに人々を救済する「利他」の精神を説くのが天台宗の教えである。最澄が目指した総合仏教教団天台宗の基本理念は一乗思想により四宗を「法華経」の教えと精神のもとで統一しようとするものであった。

それに対して真言宗や鎌倉時代に天台宗から派生していった諸宗派は単科仏教教団であった。密教に関しては真言宗に遅れをとった天台宗であったが、最澄没後、義真、円澄、円仁、円珍、良源、源信などの優れた後継者たちが教義や体制を整備し天台宗の確固たる基盤を確立したので、比叡山は日本最大の仏教教学の場となり「日本仏教の母山」となった。

■比叡山が僧侶を惹きつけた理由

最澄は天台宗独自の僧侶養成制度を作ることが必要だと考え、比叡山に戒壇院(戒律を授ける場所。当時、登壇受戒の権限は奈良東大寺、筑前観世音寺、下野薬師寺だけが有していた)の設立を願って「山家学生式」と総称される「六条式」「八条式」「四条式」を次々に朝廷に提出している。「山家学生式」は比叡山に学ぶ僧の教育理念と修学規制を定めたもので、その理念は今も受け継がれている。六条式前文で最澄は「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」と記し、仏道を求める心を持つ人材こそが国宝であり、法華経の一乗精神に基づいて、そのような人材を養成することこそが天台宗と比叡山の使命なのであると述べている。そして十二年籠山行と言って、天台宗の年分度者は、12年の間、比叡山に籠って修行し、山を降りてはならないとした。戒壇院の設置は最澄の死の七日後に認められた。

このように比叡山は膨大な経論(三蔵のうち経と論)が備わり、多くの学匠がいて、学問の場所として、修行の場所として僧侶を教育、養成する体制が整備されており、更には独立した戒壇を持つことで、多くの人材を集めることになったのである。

■比叡山は鎌倉新仏教の開祖を輩出した理由

天台宗と同時期に開かれた真言宗では空海があまりに偉大で、後継者たちもその教義を空海以上に深められなかったのに対し、天台宗では円仁、円珍が唐に行き、最澄が果たせなかった密教の教義を完成させたことで、比叡山は日本の仏教の中心となった。

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