桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【三】

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桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【三】

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桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【一】

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【二】

時は戦国、永禄三1560年「桶狭間の戦い」で今川義元(いまがわ よしもと)を討ち取った武将として歴史ファンに知られている服部小平太(はっとり こへいた)毛利新介(もうり しんすけ)

しかし、桶狭間の戦い以後の人生についてはあまり知られていないようなので、前回まで服部小平太の人生を紹介してきました。

続いて、今回は毛利新介の人生を追っていこうと思います。

毛利新介のプロフィール・誕生から桶狭間まで

【実名】毛利秀高(もうり ひでたか)⇒良勝(よしかつ)
【通称】新介(しんすけ)⇒新左衛門(しんざゑもん)
【生没年】生年不詳(天文九1540年前後?)~天正十1582年6月2日
【官位】なし
【主君】織田信長⇒織田信忠
【家族】不明

義元の背後からしがみつく毛利新介(ここでは新助秀詮となっている)。月岡芳年「桶狭間合戦稲川義元朝臣陳歿之図」より。

新介も尾張国の出身と言われていますが、その出自についてはよく知られていません。若くして信長の馬廻となっていることから、恐らく小平太と同年代(桶狭間の時点で15~25歳ごろ)と考えられます。

また一説には小姓であったとも言われ、信長の性愛対象≒美男子であったのかも知れません。

桶狭間の決戦では小平太に一歩後れをとるものの、いざ追いついてみると、態勢を崩した小平太を斬ろうと太刀を振りかぶる今川義元が、こちらに背中を向けています。

我が身に槍を突き立てられた怒りで周りも見えず、ただ小平太一人を睨み据えている義元は、こちらに気づいていません。

これは千載一遇の好機、と背後より義元に斬りつけた新介ですが、我に返った義元は猛然と新介に取っ組みかかり、新介の手指を食いちぎる執念を見せます。

最終的には義元の首級を上げた新介ですが、小平太ともども体じゅうボロボロ。膝を斬られた小平太は歩行が困難に、指を食いちぎられた新介は刀を握る力が入らない、後遺症が残ってしまう苦い勝利となりました。

秘書的存在として信長をサポート

とは言え「海道一の弓取り」と称された大大名・今川義元を撃破したことで、信長の前途が開けためでたい逆転勝利ですから、織田家中はしばし祝賀ムードに酔ったようです。

新介は武功によって左衛門尉(さゑもんのじょう)の位を与えられたため、通称を新介から新左衛門(しんざゑもん)に改め、また諱(いみな。本名)もそれまでの秀高から良勝(よしかつ)に改めました。

その後、永禄十1567年に馬廻の中でも特に選りすぐりの「母衣衆(ほろしゅう)」が創設されると新左衛門も黒母衣衆(2チーム制で、黒母衣衆と赤母衣衆が存在)に抜擢され、陰に陽に信長のそば近くに仕えます。

「長篠合戦図屏風」より、赤母衣と黒母衣。

この辺りから、かつて共に義元を倒した小平太と出世ペースに差が生じてきますが、新左衛門も手指を食いちぎられているため、武芸においては黒母衣衆の中で同輩たちに引けをとったようで、以降は秘書的な役割が多くなります。

永禄十二1569年の大河内城(現:三重県松阪市。北畠氏の居城)攻めや天正十1582年の甲州征伐では尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)として信長に随従、身辺整理や文書管理などを務めました。あるいは小姓時代と変わらず、夜伽も命じられたかも知れません。

本能寺の変・二条御所で討死

そんな新左衛門ですが、天正十1582年に信長が上洛すると、その嫡男・織田信忠(のぶただ)の側近として仕えます。

同年6月2日に起きた「本能寺の変」では二条御所(二条城)にいた信忠を逃がすべく、同僚の福富平左衛門秀勝(ふくずみ へいざゑもんひでかつ)や菅谷九郎右衛門長頼(すがや くろうゑもんながより)、そして服部小平太の弟・小藤太(ことうた)らと共に説得します。

しかし信忠はあくまでも「もはやこれまで。明智方に捕らわれて生き恥を晒すよりは、今この場で腹を切る」と聞かず、押し問答をしている内、明智軍に包囲されて脱出の機を逸してしまいました。

「……かくなる上は少しでも時を稼ぎ、若君の最期をけがさぬようお守り致そう」

「「「おう!」」」

最期まで主君を守り抜く新左衛門たち(イメージ)。

かくして新左衛門らは奮闘の末に討死、信忠が自害するまでの時を稼ぎましたが、義元に食いちぎられた手指がこれほど惜しく感じられたことはなかったことでしょう。

享年は推定40歳前後、子供については記録がなく、新左衛門の嫡流はここに絶えてしまったものと考えられます。

終わりに

以上、服部小平太と毛利新介の生涯を追って来ました。

桶狭間を境に出世競争でやや後れをとったものの、生き永らえて城持ち大名にまでなった小平太と、逆に順調な出世を遂げたものの本能寺の変であえなく散った新介(新左衛門)。

大器晩成の小平太と栴檀双葉(※)の新介……対照的な人生を送り、末路もそれぞれ大きく違った二人ですが、桶狭間で共に助け合い、死力を尽くして「海道一の弓取り」今川義元を倒したことは、かけがえのない絆となったに違いありません。

「今川義元を討ち取った」ハイライトで知られる彼らですが、こうした一発屋(それ以外に活躍がない)みたいに思われがちな人々の生涯にも興味を寄せて貰えたら、彼らもあの世で喜んでくれることでしょう。

(※)せんだんふたば。栴檀(せんだん)という香木は、双葉の芽が出た時点から既にかぐわしいことから、若くして才能を顕わし、出世する譬え。

【完】

※参考文献:

谷口克広『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、2010年10月27日
橋場日月『歴史群像 織田信長と戦国時代 信長が寵愛した八人の側近たち』学研、2014年11月

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