巨人への離縁状と生卵事件も! 長嶋茂雄と王貞治「魂の名勝負秘話」

日刊大衆

写真はイメージです
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 当時を知る関係者を取材して判明したONが成し遂げた偉業の壮絶な舞台裏。そこには常に、血と汗と涙があった!!

 いずれアヤメかカキツバタ――。巨人V9時代を支え、プロ野球人気を押し上げた最大の功労者、長嶋茂雄氏(83)と王貞治氏(79)。長嶋氏は巨人軍終身名誉監督、王氏はソフトバンク球団会長として、今なお球界を支え続けている。今回は“伝説のON”の選手、監督時代を通じてのハイライトとも言える名勝負を5つずつ選出。その偉業を振り返ってみたい。本誌は両氏をよく知る人物を介して、両人の肉声も入手したため、合わせて堪能してもらいたい(以下、文中一部=敬称略)。

 まずは長嶋の名勝負からだが、【4打席4三振のデビュー戦】から始めたい。1958年4月5日の後楽園球場、国鉄戦。対するは国鉄のエース・金田正一。「ゴールデンルーキーとの初対戦とあって、金田は燃えていました。試合前には観戦に訪れた父親から、“絶対に打たせるな”と、ハッパをかけられていたんです」(当時を知る球界関係者)

 父親の喝入れが奏功したのか、巨人打線は6回までパーフェクトに抑えられる。「長嶋がこの日、バットに当てたのは、際どい球をよけた拍子にバットにかすった1回だけ。9回も空振りしています」(前同)

 ただ、ひるむことなくフルスイングで挑んでくる長嶋に、金田は「いずれ打たれるかも」と感じたという。実際、生涯対戦成績も3割1分3厘と、金田は長嶋に“お客さん”にされた。

 続いて、“世界の王”を生む契機となった【一本足打法誕生】を振り返ろう。王の“一本足伝説”は、1962年7月1日から始まった。川崎球場で行われた巨人VS大洋の15回戦。前日は巨人が完封負けしており、チームのムードは重かった。さらに、雨で試合開始が30分遅れたため、その時間を利用してコーチミーティングが行われていた。その席上、別所毅彦コーチが怒鳴った。「王は、いつになったら打てるようになるんだ!」

 これにブチ切れたのが、打撃コーチとして、オフから王のフォーム改造に取り組んでいた荒川博だった。「まだ道半ばなんだ。ホームランを打たせるだけなら、簡単ですけどね!」

 荒川がこう啖呵を切ると、別所コーチは、「おお、上等だ。だったら、今日から打たせろ!」

 荒川は血相を変えて部屋を飛び出し、王を室内ブルペンに呼び出したという。「王は荒川さんから、“今日から右足を上げるアレでいけ。成功するかは分からんが、やってみろ”と言われたとか」(前出の関係者)

 当時は右足を、それほど上げないスタイルだったが、結果はすぐに表れた。「先発の稲川誠から、1打席目に一・二塁間を破るヒットを打つと、2打席目は内角低目の直球をライナーで右翼スタンドに運ぶホームラン。3打席目もタイムリーを放ち、猛打賞を記録したんです。一本足打法誕生の瞬間でした」(前同)

 王はこれを機に、ホームランを量産していくが、圧巻なのが、【4打席連続ホームラン】だろう。65年5月3日、阪神を後楽園球場に迎えての一戦。「この日の王は、第1打席で右翼に場外ホームランを放ち、勢いに乗りました。続く第2、第3打席もホームラン。観客が固唾を飲んで見守る第4打席は7回、二死二塁で回ってきました」(記者OB)

 王は阪神の中継ぎ・本間勝の4球目の外角ストレートを強振。打球は右中間スタンド最上段に消えた。「翌日の試合、広島は王が打席に入ると、極端にライト寄りに守る“王シフト”を披露。以来、他球団もマネし始めたんです」(前同)

■天覧試合でサヨナラホームラン!

 “記録の王、記憶の長嶋”と言われることがあるが、長嶋が、「プロ野球人として、あれ以上に感激したことはない」と振り返るのが、ご存じ【天覧試合】である。1959年6月25日、巨人-阪神の11回戦は、日本プロ野球にとって初の天皇、皇后を迎えての天覧試合だった。異様な緊張感で始まった伝統の一戦は、8回まで4対4の好ゲーム。そして迎えた9回裏――。「トップバッターは長嶋でした。このとき、9時8分。両陛下は9時15分になったら、お帰りになる予定だったので残り時間はわずか。そこで、長嶋は村山実のインハイのストレートを振り抜き、レフトポールぎりぎりに飛び込むサヨナラホームランを放ったんです」(前出の関係者)

 長嶋はこの日、5回にもホームランを打っていた。「王もホームランを打っており、初の“ONアベック”弾でしたが、サヨナラのインパクトには勝てません。この試合で、“大舞台に強い長嶋”というイメージが定着しました」(前同)

 続いては、王の【756号本塁打達成】。76年にベーブ・ルースの714本を抜いた王。翌年、目指したのはハンク・アーロンの世界記録755号だった。この年の王は、前半戦こそ不調だったが、オールスター戦後の16試合で12ホーマーと復活。ファンは、世界記録更新を期待した。「8月31日に755号でアーロンに並んだあと、9月3日、後楽園でのヤクルト戦でした。3回裏、鈴木康二朗の4球目を右翼スタンド中段に叩き込んだんです」(前出のOB)

 その日は、王の両親が観戦に訪れていたという。両親は試合前に王を訪ね、母親の登美さんが“リンゴと鈴虫”を手渡したとか。「リンゴはチームのみんなで。鈴虫は孫たちからよ」

 王は、こう述懐する。「試合前に一人で鈴虫を眺めていたら、不思議と喧騒を忘れて集中できた。あのリーンリーンという音が、今でも耳に残っているよ」

 世界のホームラン王の名前は、メジャーリーグでも知らぬ者はいない。

■地獄の伊東キャンプは語り草

 王が本塁打の世界記録に挑んでいたとき、長嶋も指揮官として戦っていた。79年に5位となった長嶋巨人が、浮上のため敢行したのが、語り草になった【地獄の伊東キャンプ】だった。「79年のオフ、11月29日から始まりました。“どのチームもやったことがない練習”を目指した長嶋監督は、期待の若手18人をいじめ抜いた。中でも、しごかれたのが松本匡史です」(OB)

 キャンプ初日、松本は長嶋監督から外野転向、左打ち転向を言い渡される。「無茶振りもいいところですよ(笑)。ただ、長嶋監督は朝6時から松本のトスバッティングにつきあい、守備練習では自らノック。松本は、“バットから指が離れなくなって、はがしてもらった”という壮絶な体験をしました」(同)

 伊東キャンプを経て確実にチームは底上げされ、翌年シーズンは3位に浮上した巨人。手応えを感じた長嶋が、「今年もやる」と意気込んだが、球団からはストップがかかった。「ミスターは“だったら、ポケットマネーでやる”と言いだして、堀江マネージャーに費用を調べさせていました。それくらい、やる気だったんです」(当時の球団関係者)

 長嶋が次に巨人の監督に返り咲いたのは、13年後の年だった。そのとき長嶋が見せた奇跡が、球史に名高い【メークドラマ】だ。巨人、中日とも69勝60敗と、まったくの同率で迎えた10月8日の試合。勝ったチームがペナント優勝というのは、実に四半世紀ぶりの珍事だった。大舞台に燃える長嶋は、「国民的行事」とファンを煽った。「巨人は7月16日の時点で、首位中日に11.5ゲームつけられていたが、ミスターは、“絶対に追いつける”とチームを鼓舞し続けました。最初は選手も、“バカな”とシラケムードだったんですが、連勝が続いたんで、その気になったんです。超ポジティブ思考のミスターが、チーム全体を暗示にかけて起こした奇跡だと言えますね」(前同)

 当日は警備員が増員され、1000人近くのファンが徹夜で並んだ。決戦の当日、ミスターと昼食をともにしたという関係者に話が聞けた。「11時頃、急に連絡があって、ホテルの中華料理店で昼食を取ることになりました。立教大時代の失敗談をおもしろおかしく話してくれましたが、試合の話はゼロでしたね」

 試合前は選手を前に、「今日は必ず勝つ」とひと言。長嶋は“オンとオフ”の切り替えも超一流だった。

■弱小ダイエーを常勝軍団に

 王も、監督として苦難と栄光のドラマを持つ。その象徴が、【巨人への離縁状と生卵事件】だろう。年9月29日、ペナント4試合を残しながら、巨人は王の監督任期満了に伴う退団を発表、王は面子を潰されてしまう。王がダイエーの監督に就任し、再びユニフォームに袖を通したのは、95年のことだった。このとき王は巨人関係者に、こう漏らしている。「ダイエーはパ・リーグだから、巨人と戦わないだろ。それに、福岡は東京から一番遠いからいいね……」

 事実上の“巨人への離縁状”である。しかし、監督を引き受けた当時のダイエーは “お荷物球団”。王の就任後も低迷が続く……。「君たちは……君たちは、悔しくないのか!」

 敗戦後のミーティングで、テーブルを叩きすぎて、王の拳には血がにじんだこともあったという。この頃、起きたのが“生卵事件”だ。年5月9日、日生球場96で行われた近鉄戦の帰りのバスに、怒ったファンが生卵を次々にぶつけたのだ。「さすがにあのときは、こんなことをされるために福岡に来たんじゃないと思ったよ。悔しかった……。でも、あの一件以来、意識が変わった。巨人時代と違って、ある程度負けを覚悟して戦えばいいんだと。それで選手への接し方も変えることができた」

 それまで王は、巨人出身者をコーチに招かなかったが、98年からV9の同僚である黒江修透氏をヘッドコーチに迎え入れる。「王さんは雲の上の人すぎて、選手の耳に考えが届かない部分があった。で、ズケズケ言う俺が呼ばれたんだ。王さんは、“黒江のいうことはオレの言葉だ”と言ってくれたんで、やりやすかったよ」(黒江氏)

 フロントも王を支え、有力選手を次々補強。役者がそろい、99年に日本一に輝く。その日、王が流したうれし涙には、万感の思いが込められていた。

 “弱小ダイエーを常勝軍団に変える”という最大の試練をクリアした王だが、長嶋にとっての最大の試練は脳梗塞だった。続いては、その【壮絶リハビリと北京五輪】の舞台裏を紹介したい。04年3月4日、脳梗塞で東京女子医大に緊急搬送された時点で、長嶋の意識はなかったという。退院後のリハビリは、医療関係者の間で語り継がれるほど、壮絶なものだった。「リハビリで快復し、北京五輪の監督をするという目標があったんです」(前出の球界関係者)

 脳梗塞に倒れたため、長嶋はアテネ五輪の監督を途中降板せざるをえなかった。無類の五輪好きとして知られる長嶋のこと、さぞかし無念だったはずだ。「星野仙一が北京五輪の監督に決まったあとも、“仙ちゃんだって、途中で降板するかもしれないから”と言って、監督を諦めていませんでしたからね」(前同)

 五輪への執念が、壮絶なリハビリを可能にしたのだ。

 最後に紹介する名勝負は、【00年のON対決】だ。巨人には生涯戻らない覚悟で飛び込んだ福岡の地で、苦節6年――ついに、巨人と日本シリーズを争う日が訪れる。しかも、相手は“永遠のライバル”長嶋だった。結果は4勝2敗で巨人に軍配が上がったが、「王は、巨人に、そしてミスターに勝ちたくてしかたなかった」(王をよく知る人物)という。

 そんな王の執念が実ったのが、19年の日本シリーズだ。原辰徳率いる巨人と、工藤公康率いるソフトバンクが日本一を争った。結果は、ソフトバンクが巨人を4タテする圧勝。巨人を討ち、念願果たした王だが、“巨人愛”は失っていなかった。その複雑な胸中が透けるのが、オフの巨人OB会での発言だ。「我々ホークスのほうは、リーグ優勝できなかった。僕としては、来年もう1回、ちゃんとリーグ優勝してジャイアンツと戦いたい」王なりのエールだろう。

 偉大なるON――両者の歩みは、プロ野球の歴史そのものである。

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