どこか同情を覚えてしまう…。多彩な能力を発揮し織田信長の重臣として活躍した明智光秀
初回視聴率は19%を超え好調なスタートを切った大河ドラマ「麒麟がくる」。
明智光秀(あけちみつひで)といえば、「本能寺の変」の実行犯であり、その行為だけを見れば謀反であり、主殺しであり、非難されるべき悪党ですが、ところが映画やテレビのドラマによっては、暴君の織田信長にいじめられ、耐えに耐えた挙句に反撃に出たように描かれ、どこか同情を誘ってしまう人物です。
怨恨説や野望説かつては、本能寺の変は光秀の単独犯行説が定番で天下取りを志したという野望説と信長への怨恨説に分かれていました。
このうちの怨恨説は、酒宴の席で信長から大盃につがれた酒を飲むように強要されたり、満座の中で信長に頭を叩かれたりしたほか、敵に人質として差し出した実母を信長が見殺しにしたり、光秀の所領が没収されそうになったりしたことなどを根拠としてあげています。仮にこれが史実であるとしたならば、悪いのは信長のほうであって、光秀が怒るのもあたりまえ。
ところが、これらの根拠とされる話の多くは信憑性にかけ、現在では怨恨説も野望説も否定する歴史家が多くいます。また、信長が光秀につらくあたったのは信長が光秀の武将としての能力を評価していなかったという説も誤解であったといわれています。
確かに、信長と光秀ではまったく異なり、将軍・足利義昭にもつかえていた光秀は教養人でした。信長は、卑賤な生まれといわれた羽柴秀吉とは「憎めないやつ」として相性が合っていたのにくらべ、光秀とはそりが合わなかったことは十分考えられる。
だが、合理主義者の信長は好き嫌いで武将らを評価することはありませんでした。天下取りのためには、相性が合おうが合うまいが能力のある者を評価し重用しています。光秀に対しても評価は同じでした。
信長の重臣として活躍した光秀1571(元亀二)年、信長は比叡山焼き討ちのあとに光秀に恩賞として近江国(滋賀県)滋賀郡に所領を与えたますが、これによって光秀は信長の重臣としてトップクラスになります。
その後、光秀は坂本城(滋賀県大津市)を築き、城主となりますが、坂本城は要衝の城であり、安土城い次ぐ「天下第二の城」といわれました。信長は自分の居城に次ぐ大事な城を光秀に預けており、それだけ光秀を信頼していたということになります。
さらに1579(天正七)年、光秀が丹波を平定すると、その翌年に信長は恩賞として丹波一国を光秀に与えており、光秀に対する評価は重臣らのなかでも群を抜いていたことがわかります。
実際、光秀は軍事・築城・行政・外交など多くの分野で能力を発揮しており、野望説のいうとおり天下をねらつてもおかしくない逸材でした。信長が天下取り寸前というところまで権勢を拡大することができたのも、光秀の尽力に負うところが大きかったといえます。
それに連歌にも秀で、連歌会を催すなど教養も高かったようです。
光秀が単に武芸に秀でただけの武将で、信長に忠誠心が高かったのなら信長との関係もも長く良く続いたはず。信長は有能すぎる家臣をもったことで、身を滅ぼすことになったのかもしれませんね。
参考:戦国武将列伝Ω
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