「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉知ってる?鈴木春信の浮世絵に見る江戸時代の梅の花

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「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉知ってる?鈴木春信の浮世絵に見る江戸時代の梅の花

『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』という言葉をご存知ですか?

これは樹木の剪定についての言葉で“桜はいたずらに枝を切ると断面から腐食菌が入って痛みやすく、梅は枝を切らないと枝数が増えずに翌年花が咲かない”という意味です。

しかし筆者がこの言葉を聞いて、頭に浮かんだのはこの絵でした。

鈴木春信《梅の枝折り》1767-68頃

鈴木春信《梅の枝折り》1767-68頃 出典シカゴ美術館

梅の枝を手折ろうとしているのは、多分裕福な家の娘でしょう。振り袖の着物の模様は雪を被った松と竹。梅を手に取れば“松竹梅”です。帯の竹の柄の縦の線と、壁の横線のもようが対照的でこの絵を引き締めています。

橘の吉祥文様の帯からも娘の両親の気持ちが分かります。“橘”はみかん科みかん属の日本固有の柑橘であり、また常緑樹であることから“永遠”や実をつけることから“子宝に恵まれる”などの意味があるからです。

でもこの行為には少し驚かされませんか?梅を手折ろうとしている娘は、多分娘より年上の女性の背中の帯のあたり、もしくは肩に足をかけて梅を取ろうとしているのです。下の女性は多分振袖を着ている娘の世話係の女性かと思うのですが。

梅の枝折り(部分)

梅の枝折り(部分)

嫌々娘を担いでいるのかと思って表情を見ると、どちらかというと面白がっているような感じに見えます。

梅の枝折り娘(部分)

梅の枝折り(部分)

女性の上に乗っている女性は、びくびくする様子もなく冷静に辺りをうかがって、梅を手折ろうとしています。脱ぎ散らかした草履もひっくり返って相当なお転婆娘です。

何もそこまでしなくてもと思いますが、江戸時代の花見は“梅に始まり菊に終わる”といわれるほど、現在の“桜の花見”と同じくらい、“梅見”も人々にとっては春の到来同様に喜ばれたのです。

夜の梅 鈴木春信《夜の梅》出典:シカゴ美術館

鈴木春信《夜の梅》出典:シカゴ美術館

「探梅」という言葉があります。私は“ふっと梅の香りがして、その香りを頼りに梅の花を探すこと”と教えてもらったのですが、調べてみると「探梅」は冬の季語で意味は“まだ冬の景色が色濃く残る山中に、早咲きの梅を探しに出かけること”とありました。

上掲の『夜の梅』の少女は梅の香りに誘われて、夜に外出したような風情ですね。暗闇の中に白梅が辺りを照らすようにポッポッと咲いていて、手にした燭台も少女や白梅を照らし出すようです。

鈴木春信『夜の夢』(足元部分)

鈴木春信『夜の夢』(部分)

しかし、この少女の足元が見えるでしょうか?よく見ると草履を履いていません。この足元は“空摺”という方法で、版木に紙を押し当てて凹凸で形を表現したものです。

そして片手で長い着物を汚れないようにたくし上げています。

この少女は外へ外出したのではなく、梅の香りに誘われたのか、自分の住む家の欄干のついた広い縁に出て、梅の花を眺めているのです。これは筆者が聞いた「探梅」の意味に近いのではないでしょうか。

それとも夜の方が梅の香りを強く感じることを知って梅を愛でているのでしょうか。

江戸時代の梅事情

梅は、新元号の“令和”の典拠である日本最古の和歌集“万葉集”の梅花の歌の序文にもあるように、古くから日本人に親しまれてきたことが分かりますが、元は中国から日本に伝来した樹木であり、“春告草”とも呼ばれました。ちなみに旧暦の2月は“梅見月”とも呼ばれます。

桜は元は山桜という日本原産の樹木ですが、梅はもともと日本にはなかったものなので、庭や庭園などに植えて愛でられることが多い花木でした。

一立斎広重 亀戸梅屋舗全図_出典:国立国会図書館

歌川広重 亀戸梅屋舗全図(江戸後期)

江戸時代の冬は今よりとても寒く、小氷河期に入っていたとも言われています。江戸中期以降は隅田川が三度も凍りつきました。江戸の人々はとても寒い冬を過ごしていました。早く春が来てほしいという思いは切実であったと思います。

江戸の“梅の盛り”の時期は現代とは比べ物にならないくらい、梅は切り花や盆栽・庭木として愛でられ、人々は「梅見」に繰り出しました。多くの花梅の品種は江戸時代に作られたと言われています。

江戸の梅は通人が好むとされ、梅の名所としては、亀戸の梅屋敷や新梅屋敷(向島百花園)、蒲田の梅屋敷などが有名でした。特に「江戸名所花暦」には、亀戸の梅屋敷の〈臥竜梅〉こそが絶品と書かれています。

鈴木春信 《臥龍梅の前に煙草のもらい火》出典:シカゴ美術館

鈴木春信 《臥龍梅の前に煙草のもらい火》出典:シカゴ美術館

上掲の浮世絵ですが立て札に“臥龍梅”書いてあるように、ここは亀戸の梅屋敷内でしょう。その臥龍梅の前で、煙草入れから煙管に刻み煙草を詰めて女性の方から、まだ頭を剃っている少年とも言えるような男性に煙草の火をもらっている場面です。

男性のそばには小僧さんがいて、旦那さんの履き替え用の下駄を持っています。そのような小僧さんを連れ歩くとは相当のお金持ちです。

ただこの女性、振袖は当時少女と言える年頃の娘が着るものでした。それが煙草を吸うとは、しかも男性からのもらい火とは遊女でしょうか。しかし浮世絵はただ事実を描くものではありませんので、そこをつついても野暮かもしれません。

しかしこのように煙管や煙草のもらい火から、人間同士の会話が始まり、気が合えば恋に落ちたりするという、「梅見」も一つの出会いの場であったのでしょう。

また、少年の袖に描かれている源氏香は「花の宴」という名前がついています。このことからも「梅見」が人々の大切な行事であったことが分かります。

さいごに

白梅の写真

先程の季語としての「探梅」という言葉は冬の季語ですが、「梅」や「梅見」は春の季語です。同じ“梅”という言葉が入っている季語でも、その行動の内容で季語の季節が変わるほど、日本人は季節のうつろいに敏感だったのです。

梅は鈴木春信以外の浮世絵作者にも沢山描かれた題材です。浮世絵は人々が好むものを描きますから、それだけ人々に愛されたということでしょう。

筆者が常々訪ねたいと思っている長浜盆梅展など、滅多に観られない「梅見」もあります。皆さんも着物など着て、今年は梅を見にいきませんか。

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