鎌倉幕府を陰で牛耳った実力者!平頼綱「恐怖政治」と「気になる姿」

日刊大衆

写真はイメージです
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 大納言・久我雅忠の娘(後深草院二条)が書いた鎌倉時代の日記文学『とはずがたり』に、面白い話が掲載されている。

 筆者は日本全国を旅し、正応二年(1289)九月に惟康親王(源惟康)が将軍職を罷免された事件を、滞在先の鎌倉で目の当たりにした。彼女は、鎌倉を追放されることになった将軍が「御所を出発なさる」際、対の屋の端に寄せられた、余りにも粗末な張輿(簡易な輿)を目撃。また、雑事をこなす小舎人が、将軍が輿に乗る前から土足で御所の御み簾すを引き落とす様を見て「言語道断で目も当てられなかった」と述懐している。こうした仕打ちは時の執権・北条貞時の指示だったという。

 惟康親王の追放劇については皇統分裂などの事情もあって複雑な事情が絡み合っているものの、父である宗尊親王(六代将軍)も京に送還されたように、実際に将軍はこの頃、名ばかりの存在になっていた。日本では平清盛が初の武家政権を誕生させ、その死後に治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)で源頼朝が鎌倉に幕府を開いたが、源氏の将軍は三代で消滅。幕府はその後、京の摂関家、さらに皇族から将軍を迎えた。

 この源氏に代わって権力を掌握したのが頼朝の舅となった北条時政。関東で源氏と密接な関係を築いた平直方の末裔である北条氏は、伊豆国田方郡北条(伊豆の国市)を領地とした。よく初代執権は時政といわれるが、厳密には次男の北条義時が父を政界から追い、建保元年(1213)に幕府の政所別当と侍所別当を兼ねたことから、執権職が成立したといったほうが正確だろう。

 以降、執権は将軍を補佐するという建前の下、権力を掌握。前述の通り将軍を追放するまでになり、その義時は2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主役に抜擢された。

 つまり、武家政権は「平清盛→源頼朝→北条義時」と変遷し、その後、平氏の北条に代わって源氏の足利尊氏が新たな幕府を興すと、戦国時代に「源平政権交代論」が盛んになり、室町幕府の一五代将軍足利義昭を京から追放した織田信長が平氏を称した。

 それはともかく、義時の時代に執権政治の時代が始まったわけだが、これもやがては事実上の名誉職になる。では誰が鎌倉幕府を動かしたのか。執権政治を確立させた義時の法名は「徳宗(得宗)」で、その直系である北条氏の惣領家を得宗家と呼び、九代執権である前述の貞時の時代から鎌倉幕府が滅びるまでの政治を「得宗専制」という。そして、その体制を誕生させたのが貞時の父である北条時宗。

 当時、モンゴルが日本に来襲するという未曽有の国難(元寇)を前に、権力を集中させて即断即決で事態の処理に当たる必要があった。そこで時宗は、少人数の寄合を開き、重要案件を処理。鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』に「深秘の御沙汰」などと記載された通り、要は密室で専制政治が行われた。

■権力者である頼綱は「興ざめする」容姿!?

 実際、寄合のメンバーはわずか五人で、うち、主要な安達泰盛と平頼綱は、前者が時宗の妻の兄という立場だった有力御家人である一方、後者は得宗家の家政機関である公文所の執事(長官)。内管領、御内人とも呼ばれ、次の当主となる貞時の乳母の夫という立場に過ぎなかった。

 その頼綱は祖父の盛綱が得宗家初代である義時に仕えた得宗家累代の家臣。先祖は平清盛の孫である資盛と称しているようだが、事実とは考えづらい。のちに頼綱の一族は長崎氏と称し、これが北条氏発祥の地と同じ伊豆国田方郡の地名であることから、もともとは北条一族で、早い時点で得宗家の家臣になったものとみられる。

 そして、得宗家の家臣に過ぎない頼綱は時宗の死後、同じく寄合メンバーの一人だった安達泰盛を誅殺して権力を掌握。これを「霜月騒動」という。『保暦間記』によると、弘安八年(1285)の一一月(霜月)一七日に起きたためだ。この事件は安達泰盛の子の宗景が、源頼朝の子孫であると称して源氏に改姓したことに対し、頼綱が謀反の意図があると讒言したことに起因する。

 こうして泰盛とその一族を葬り去った頼綱は、公卿の日記に「諸人恐懼」と書かれるほどの恐怖政治を行い、実は将軍である惟康親王の追放劇で現場を仕切ったのも彼だった。

 いったい、得宗家の家臣がなぜ、ここまで力を持つことができたのか。その要因が“執事奉書”。重要な案件は必ず、得宗家当主の判(花押)が必要だったが、それがなくなったことで、執事、すなわち頼綱のものだけで処理することができるようになったため。いわば、社長のお気に入りが、その稟議書なしで自由に会社を動かすようなものだろうか。

 冒頭で触れた『とはずがたり』の筆者は、惟康親王に代わって別の親王が将軍として鎌倉に東下することになった頃、平頼綱の邸に呼ばれた。そこで、筆者は新将軍の御所が「常のしつらい」、すなわち、極めてありふれた造りだったのと対比し、頼綱の邸が金銀や金玉を散りばめ、想像上の鳥である鸞鳥の鏡を磨いたような眩さだったと記している。

 ただ、一方で、筆者が会った際の頼綱の容姿は興味深い。彼女が「頼綱が袖短い直垂姿で向こうから走って来て奥方に寄り添った姿を見て興ざめする気がした」と書いたように、英雄的な容姿の男ではなかったようだ。

 その頼綱も永仁元年(1293)四月、成人した貞時の差し向けた討手により、一族九〇余人もろとも滅ぼされた(平禅門の乱)。

 その後、一族の長崎光綱が得宗家の執事として復活し、再び長崎氏の専横が激しくなり、それが鎌倉幕府滅亡の一因ともされている。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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