監督の座を追われても不貞を全うした、野村克也さんの“純愛”略奪不倫?【芸能界“ドロ沼”不倫ファイル】
6日発売の『週刊文春』(文藝春秋)で、女優の鈴木杏樹と舞台俳優の喜多村緑郎との不倫が報じられ、騒然となった。騒動は収拾がつかぬまま、13日発売の同誌は騒動の続報記事を掲載。喜多村の妻である、元宝塚トップスター・貴城けいの悲痛な告白がさらなる話題を集めた。
芸能界では相次ぐ不倫報道で世間をにぎわせている。11日、虚血性心不全で亡くなったプロ野球・南海やヤクルトなどの監督を歴任した野村克也さんもかつては略奪不倫の経験者だ。
野村さんというと、1954年に契約金ゼロ円で南海ホークス(現:ソフトバンク)にプロ入り。3年目の56年に正捕手の座をつかみ取り、戦後初の三冠王を獲得するなど活躍し野球史に名を刻んだ。80年限りで現役生活を終え、以降は監督や野球解説・評論家として生涯にわたり野球をこよなく愛し続けた。
そんな野村さんの野球人生を支え続けたのが愛妻・沙知代さんだった。しかし、沙知代さんは2017年12月にくしくも野村さんと同じ死因でこの世を去っている。
夫婦の出会いは、野村さんが南海の選手兼任監督であった1970年。飲食店での相席がきっかけだったというが、当時、双方ともに既婚者であり親の身であった。13日発売の『女性セブン』(小学館)では、かつての野村さんのインタビュー記事を掲載。「彼女は、女社長で海外のことも詳しい。スタイルがよくてきれいで、内面も太陽のように明るくサバサバしていた。本当にすごくよく見えたんだな」と沙知代さんとの出会いを振り返っている。
「沙知代さんと出会ってしまった野村さんは本妻と別居し、ダブル不倫に狂奔したようです。周囲からの忠告を無視し、不貞に走り続けた夫妻は、73年に現在の楽天イーグルス一軍作戦コーチ・克則氏をもうけました。野村さんは当初、克則氏を認知せず、沙知代さんは実父の養子にしようとしたそうです。この頃から球団のチーム運営に口を挟む行為が目立ってきた沙知代さんに選手たちの不満が渦巻くようになったといいます。さらに76年5月に元夫との離婚が成立した沙知代さんの口出しはエスカレートしていったといいます」(野球関係者)
「野球を選ぶのか、女を選ぶのか」と関係者から究極の選択を迫られた野村さんが、迷わず沙知代さんを取ったという話は有名である。そして、この件で選手と兼任していた南海の監督の座はシーズン終了を待たず2試合を残して奪われたのだ。
1978年1月、野村さんと本妻の離婚が成立すると、同年4月に2人は晴れて正式な夫婦に。沙知代さんの2人の連れ子を養子に迎えた。現役引退後は、野球評論家として解説業のかたわら、野球に関する著作を次々と発表。89年オフ以降は監督に就任し、監督通算1565勝は歴代5位。10年には楽天イーグルスの名誉監督に就任し、プロ野球界の名将と呼ばれた。
夫を支え続ける一方で、沙知代さんは野村さんをさまざまな騒動に巻き込んだ。経歴詐称問題、女優・浅香光代とのミッチー・サッチー騒動、巨額の所得隠しによる有罪判決などの問題を起こしては責任を取る形で監督を退くこともあった。だが、野村さんは離婚を考えたことはなかったという。
野村さんは、来世も沙知代さんと結婚するかという同誌のインタビューにおいて、「来世もめぐり合って結婚するでしょう。あんな猛獣とうまくやっていけるのは自分だけだという自負もある」と宣言していた。芸能界きっての“おしどり夫婦”として愛された夫妻。野球一筋で、大恋愛を貫いた野村さんの生涯には「我が人生に悔いなし」という言葉がぴったりではないだろうか。