江戸時代、遊郭を仕切る楼主は差別対象!?なかには自殺してしまった楼主も…

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江戸時代、遊郭を仕切る楼主は差別対象!?なかには自殺してしまった楼主も…

江戸時代、遊郭で働いていた遊女たちは、年季を勤め上げて借金を返済し終わったら普通に結婚していたことがあります。

この事実に驚いたのは、当時 日本にやってきた外国人達です。彼らの国では娼婦から足を洗っても家庭に入ることはあり得ませんでした。

年季が明ければ普通に結婚していた事実からもわかる通り、江戸時代の遊女たちは差別されるべき対象ではなかったのです。

反面、遊郭の経営者だった楼主こそ、差別の対象になっていました。なかには差別される経験が身に染みて自殺してしまった楼主もいたとか。

喜多川歌麿 画

江戸時代、遊女は流行の最先端だったので、一般の女性たちから注目されていました。

人気の遊女になると歌舞伎で演じられたり浮世絵に描かれたりするようになるので、遊郭にかかわりのない市民でも彼女たちの存在は身近だったのです。

実際に人気遊女・勝山から発信されて流行となり、既婚女性が結う定番の女髷になった「勝山髷」という髪形もあります。

このように、流行の発信地としての役割を担っていた遊女は注目の的だったのです。

元遊女が結婚することは普通だった

ただし、やはり遊女の労働環境は過酷であり、人身売買が禁止されていたとはいえ、実際には身売りによって遊女の売買が行われていました。

ほとんどが貧しさゆえ親に売られてしまった少女たちだったため、遊女は「家族のためにその身を犠牲にした孝行者である」と認知されていたのです。

歌川国貞 画

そのような状況だったので、元遊女だから妻にできないという男性はあまりいませんでした。ただし、その状況を不思議に感じたのが外国人たちです。

当時 来日していたドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルは「日本誌」に、スウェーデンの植物学者カール・ツンベルクは「江戸参府随行記」に、それぞれの著書で「身を売っていた女性が一般の家庭に入ることは珍しくないし、それをまた周りも普通に受け入れている」と驚いた様子で綴っています。

痛烈に差別されていた楼主たち

一般の人たちは、身売りされてしまった遊女に対して同情的な視線を向けていたのでしょう。その反面、遊女たちを束ねる楼主は批判の対象となりました。

楼主は「忘八(ぼうはち)」と呼ばれ、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの徳を忘れたという意味で蔑まれていたのです。

「日本誌」内で、ケンペルは楼主に対して「決して公正な市民ではない」と差別的な意見を述べています。外国人だけでなく、江戸の市民や幕府の人間でさえも、楼主の所業は人間のすることではないと痛烈に非難しているのです。

江戸時代の見聞録・世事見聞録には、楼主を「およそ人間にあらず」と表現しています。また、ある訴えを起こされた楼主に対して、幕府からは「楼主は四民の下」だと批判されていました。

歌川芳員 画

江戸前期の俳人・榎本其角(えのもと きかく)は、著書「雑談集」の中に自殺した楼主のエピソードを載せています。

その楼主は、自分の立場を恥じて風流に身をゆだねたが、その状況になんら変わらないことに絶望して自分で命を絶ってしまったそうです。

また、吉原遊郭創立に奔走した立役者・庄司甚内は武家の血筋という説があります。ただし、楼主になったことを恥じていたため、決して父の名を明かさなかったとか。

苦界に身を落とし、地獄のような日々を過ごして生きた遊女たち。そして、彼女たちを束ねていた楼主たちにも、それぞれの事情があったのかもしれません。

参考書籍:安藤 優一郎「江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活」

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