学問の神様・菅原道真公の怨霊が引き起こした数々の悲劇【後編】

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学問の神様・菅原道真公の怨霊が引き起こした数々の悲劇【後編】

前回に引き続き、平安時代に菅原道真の怨霊が引き起こした数々の悲劇にクローズアップします。

学問の神様・菅原道真公の怨霊が引き起こした数々の悲劇【前編】

菅原道真伝説に関係あり?雷が落ちると「くわばら、くわばら」っていうのは何故?

醍醐天皇の跡継ぎを襲う悲劇

延喜23年には道真の左遷を決定した張本人、醍醐天皇の息子で東宮の保明親王(やすあきらしんのう)が薨去してしまいます。保明親王は弱冠20歳。彼は醍醐天皇の第2皇子で、伯父の左大臣・藤原時平の後ろ盾を得て、延喜4年(904年)にわずか2歳で醍醐天皇の後継ぎとして東宮となった人物でした。

醍醐天皇にとっては大切な後継者であり、時平が夢と希望を託した、期待の星ともいえる若き青年でした。

保明親王薨去後、その第1王子で時平の外孫であった慶頼王(やすよりおう)が皇太子に立てられましたが、2年後僅か5歳でこちらも薨御。代わりに保明親王の同母弟、寛明親王(朱雀天皇)が皇太子となります。

保明親王・慶頼王のどちらも藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ薨去は時平が追い落とした菅原道真の怨霊による祟りだという噂が立ちました。その後、道真は亡くなっているにもかかわらず右大臣に戻され、正二位を贈られました。

清涼殿落雷事件

しかし更に不幸は続き、延長8年(930年)朝議中だった清涼殿に、雷が直撃。

『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件 Wikipediaより

時平とともに道真を失脚に追い込んだ藤原清貫(ふじわらのきよつら)、平希世(たいらのまれよ)をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出ました。不幸続きの心労で醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御。更には承平3年(933年)に時平の長男保忠が死亡。

人々は、いよいよ道真の怨霊の存在を無視する事ができなくなります。

神となった菅原道真公

相次ぐ日照りや疫病の流行、洪水や大雨などの災害もすべて道真の怨霊が原因ではないかとされ、道真公は天暦元年(947年)に北野社において神として祀られることになりました。

一条天皇の時代には道真公の神格化が更に進み、正暦4年(993年)6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られました。

今では道真公は神様となって学芸の道に励む人々の事を優しく見守ってくれています。

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