長嶋茂雄と王貞治…愛と憎しみのライバル秘話 (3/5ページ)
長嶋は石原照夫(後に東映に入団)が投げた外角のストレートを打ち返し、右中間を大きく破る二塁打。この一打で、砂押監督は長嶋の才能を見抜いた。「ご苦労さん、もういいよ」 長嶋の“抜き打ちテスト”は、1打席で終わった。
後日、立教大学では砂押監督と数名のOBが列席し、スポーツ推薦会議が行われた。1番目に全員が芦屋高校の本屋敷錦吾(後に阪急に入団)の名を挙げると、「少々粗削りな部分はあるが、素質は十分」と、砂押監督は2番目に長嶋の名を挙げた。「そんな無名の選手を2番手にしてよいのか」と異論が出たものの、砂押監督はそのまま押し切ったという。当時、立教の野球部に与えられた推薦枠は15人だった。
立教に入学した長嶋は、野球部で“鬼”と陰口を叩かれるほどに恐れられていた砂押監督のもと、猛練習に励んだ。有名な“月夜のノック”で守備の基本を学び、チーム練習の後は、池袋にあった砂押監督の自宅で、2時間、素振りをした。〈一選手に2時間もつきっきりで個人練習したなんてのは前代未聞。長嶋は、砂押監督のおかげで打者の才能を開花させた〉 後年、“学生野球の父”とされる飛田穂洲は朝日新聞に、こう寄稿している。
ご存じのように長嶋は、東京六大学野球で押しも押されもせぬスターとなる。当時の新記録となる通算8号本塁打を放ったあと、砂押監督は報知新聞に、こうコメントしている。〈私が長嶋を初めて見たのは昭和28年の秋。一目見て“今まで手掛けたことがない大選手になる”と直感した。私は、長嶋に細かい技術的なことはほとんど言わなかった。彼はちょっとヒントを与えると、私の言わんとしていることを悟ってくれた。天賦の才があったんだと思う〉
“ミスタープロ野球”長嶋茂雄は、砂押監督と出会わなければ生まれなかったかもしれない。
■プロからも注目を集める高校球児
甲子園本戦への出場経験がなく、高校時代は無名だった長嶋とは対照的に、王はプロからも注目を集める高校球児だった。王が、スラッガーとしての才能を開花させたのは、本所中学(東京都墨田区)野球部2年生のときだ。