聖徳太子は実在しなかった!?聖徳太子のモデルとされる「厩戸皇子」とは?

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聖徳太子は実在しなかった!?聖徳太子のモデルとされる「厩戸皇子」とは?

「聖徳太子」といえば日本人なら誰もが知っている人物ですが、歴史研究者の中では彼の実在について長い間論争されてきました。

歴史上の聖徳太子といえば、推古天皇に摂政として仕え、「冠位十二階」や「十七条の憲法」の制定など、当時としては革新的な政策を推し進める一方、国内のみならず海外の事情にも明るく仏教に深く帰依していた人物というのが一般的なイメージだと思います。

また、10人の相談者の話を同時に理解し、返答したという話や、菩薩の生まれ変わりという話もある何かと不思議・謎の人物として知られています。

ところが、近年では、教科書などでお馴染みのこのような聖徳太子は実はいなかったのでは?

と考えられるようになってきました。

菊池容斎『前賢故実』に描かれた聖徳太子像(wikipediaより)

その根拠として聖徳太子本人が生きていた時代に書かれたりつくられた史料は一つも現存しておらず、『日本書記』中の「十七条の憲法」の記述に使用されている「国司」という言葉は彼が生きた時代よりもずっとあとに使われるようになったものでした。

さらに日本最古の歴史書である『古事記』に関しては、彼が補佐した推古天皇については記述があるものの、彼自身についての記述は何一つありません。

これらのことから、現在では、実在していた「厩戸皇子(うまやどのみこ)」をモデルに、「聖徳太子」という政治家を後世になってから作り出されたと考えられるようになっています。

かつてのお札にも描かれた聖徳太子の肖像画。その元となった「唐本御影」とも呼ばれるものは現在では「伝聖徳太子像」と記述されることも少なくありません。

唐本御影の木版複製

聖徳太子のモデルとなった厩戸皇子は享年48才で亡くなりましたが、その最期に関してもはっきりしていません。母親や妻と同時期に亡くなっていることから、伝染病や自殺、他殺など、様々な説が存在しているようです。

現在、聖徳太子のお墓は、大阪府南河内郡太子町にある叡福寺(えいふくじ)にある叡福寺北古墳であるとされ、そこには、母親である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女と、妻の一人である膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)も一緒に埋葬されています。

残されている伝説や功績の全てが事実ではなかったとしても、初期仏教の普及に大きな役割を果たし、死後まもなく伝説化されたことを考えていても、やはり厩戸皇子は優秀な政治家だったと考えられます。

アクセス

叡福寺(大阪府南河内郡太子町太子2146)

近鉄長野線「喜志駅」又は近鉄南大阪線「上ノ太子駅」下車
金剛バス(太子線・喜志循環線)「太子前駅」下車
徒歩3分

参考

「叡福寺」『大阪府太子町』公式サイト 佐治 芳彦『捏造された聖徳太子神話―聖徳太子は実在しなかった』

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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