ある刀工が眠るという太宰府市の宝満宮竈門神社の板碑を調べてみた (3/7ページ)

心に残る家族葬



これらはいずれも伝承であり、竈門神社下宮に残る花崗岩製の板碑と、勢力範囲が竈門山近辺にとどまらず、筑前(現・福岡県北西部)、豊後(ぶんご、現・大分県)、筑後(現・福岡県南西部)や肥前(現・佐賀県、壱岐・対馬以外の長崎県)など、北部九州一帯に広がり、多くの名刀を残した一派・金剛兵衛における「刀工金剛兵衛源盛髙」との関連については、明確なことは不明だ。

■初代・盛國と宝満山修験道が竈門神社の存立に深く関わった

金剛兵衛源盛髙の父・盛國、そして竈門神社の存立に深く関わっているのが、宝満山修験道である。修験道とは、「山」そのものや、山中の「巨石」などを信仰する山岳宗教をベースとして、シャーマニズムや中国の道教、陰陽道の影響を受けつつ、仏教の真言宗や天台宗などの密教と、日本独自の神道と混じり合った宗教で、平安時代末期に成立した。

■宝満山で修験道が流行した理由とは

そもそも何故、宝満山で修験道が興隆を極めたのか。それまでの宝満山は、地域の人々の生活を潤してきた御笠川(みかさがわ)の水源であったことから、その水を司る水分(みまくり)神としての役割を果たしていた。しかし7世紀後半頃に現在の九州圏の政治・経済・軍事を扱った大宰府政庁が置かれた。そしてその東北部、すなわち鬼門に位置する宝満山は、大宰府政庁を護る山としての役割を担うことにもなった。それを裏づけるように、板碑が位置する竈門神社下宮近辺から、奈良時代(710〜794)の「鴻臚館(こうろかん)式瓦」が出土していること、そして最澄(766/767〜822)が804(延暦23)年の渡唐前年に大宰府に下り、山麓に建てられていた神仏混淆の竈門山寺(大山寺(だいせんじ)、内山寺(だいせんじ)、有智山寺(うちやまでら)とも言う)に航海の無事、そして入唐求法(にっとうぐほう)の成功を祈り、薬師仏4体を彫ったことから、修験道成立以前から、広く知られた信仰の場であった。しかも、「わざわざ、ここ」なのは、竈門神社の祭神が、海神の娘である玉依姫(たまよりひめ)だったことから、最澄のみならず、空海(774〜835)や遣隋使・遣唐使の使者たちが航海の無事を祈り、それが叶えられていたためだった。
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