「応仁の乱」約70年前に大規模合戦明徳の乱「京都焦土化回避」の理由 (2/3ページ)

日刊大衆

 義満はこのあたり、複雑な人間関係の本質を見抜く能力に長けていたようで、満幸は次第にその手のひらで転がされるようになる。義満はまず、不満を抱く満幸とその舅である氏清に、時熈と氏幸を討たせると、この二人を翌年に赦免。当然、満幸からしたら「話が違う」となるが、さらに彼は出雲国にあった仙洞領(上皇領)を横領したとの理由で京から追放されてしまう。

 むろん、義満は初めからそのつもりで、彼に山名一族の勢力を削ぐ手伝いをさせられたことに気づいた満幸は、横領の一件で恨みをさらに募らせ、舅の氏清を誘って挙兵。内紛を利用して山名一族に叛旗を翻させるという義満の狙い通りとなった。

 とはいえ、満幸はともかく、時氏の子で丹波と和泉の守護だった氏清は歴戦の勇者。彼が和泉から、さらに、満幸は自身が守護の丹後からそれぞれ軍勢を率いて京を目指し、ここで義満を南北から挟み討ちにする戦術を採った。

 一方、義満は南北の敵に対して同時に軍勢を差し向ければ、兵力が分散しかねないことから、もともと平安京の内裏跡で空き地だった内野と呼ばれる堀川の西に布陣。対する山名方は、幕府軍が東山や比叡山辺りの要害に陣を敷くとみていただけに、義満の戦術は意外だったようだ。

 山名一族の討伐は義満にすれば、幕府の威信が懸かるだけに、要害を盾に反乱軍の攻勢をしのぐ戦術は採りづらかったのだろう。『明徳紀』によると、義満は内野を囲むように幕府軍を配置し、その四囲を諸将に守らせ、一方が破られても、侵入してきた敵を四方から取り囲んで殲滅しようとした。

■京都の街に大きな被害がなかった理由とは

 明徳二年(1391)の暮れも押し詰まった十二月三〇日早朝、南から京の二条大宮に侵入した氏清の軍勢がまず、幕府方の大内義弘軍と衝突して戦いがスタート。緒戦は猛将の誉れ高い義弘の指揮によって幕府軍が勝利し、彼は『明徳紀』によると、わざわざ騎馬武者を下馬させ、盾を前に密集させて弓矢で敵を防ぐ作戦を採ったという。

 一方、西側(丹波口方面)から攻め入った山名満幸の軍勢には、細川、畠山、赤松など有力守護勢に加え、義満の馬廻り勢(親衛隊)が加わり、激戦となった。

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