ソフトバンク・柳田、広島・鈴木、大谷翔平も!プロ野球「師弟の絆」秘話
6月19日、ついにプロ野球が開幕した。ペナントレースで優勝を狙う強豪球団には必ず、柳田悠岐、鈴木誠也、菅野智之など、チームの顔となる選手がいるが、彼らも一人で今日の地位を築いたわけではない。ペナントの行方を左右する名選手の陰には、彼らを育てた偉大な師匠が存在するのだ。
たとえば、ソフトバンク・柳田の場合は、王貞治会長がそれに当たる。
「2010年、柳田はドラフト2位でホークスに入団。ドラフト同期には元西武で今年からメジャーで戦う秋山翔吾がいます。当時のスカウト陣は秋山を2位指名する方向でしたが、飛距離のある選手が欲しいという王会長の意向で、柳田を指名することになったんです」(スポーツ紙デスク)
そんな柳田だが、ルーキーイヤーでの1軍出場は4試合のみ。ほとんどファーム暮らしだったが、王会長から「柳田のバッティングには手をつけるな」と異例の指令が出ていたという。
「柳田といえば豪快な打撃フォームが特徴。結果が出なければ、コーチはいじりたくなるものです。しかし王会長は、柳田のフォームが理にかなったものであることを確信していました。15年には目標だった打率3割・30本塁打・30盗塁超えのトリプルスリーを達成。王会長の眼力通り、柳田はリーグを代表する強打者に成長しました」(前同)
19年オフには7年契約、総額40億円規模という超大型契約を結んだ柳田だが、破格の条件は王会長の強い意向だったという。
侍ジャパンの4番を張る、広島・鈴木誠也の恩師は石井琢朗コーチだ。
「15年秋、打撃コーチに配置転換となった石井は、秋季キャンプで鈴木に徹底的にバットを振らせたんです。皮が裂け、血がにじんでも石井は見て見ぬふり。鈴木も意地になってバットを振り続けたそうです。鈴木が“二度とやりたくない”と振り返るキツい猛特訓だったとか」(スポーツ紙記者)
そんな鈴木にはもう一人、師匠が。15年の秋季キャンプ直後、石井の紹介でソフトバンクの内川聖一の自主トレに参加したのだ。
「内川の“体の中で打球を捉えろ”“静態しているくらいの気持ちで打て”という助言で開眼。16年、流行語にもなった“神ってる”活躍で、鈴木は広島の中軸に成長しました」(前同)
巨人2連覇のカギとなるのは坂本勇人。飛躍のきっかけは当時、日本代表の監督を務めていた星野仙一との出会いである。
「07年、北京のプレ五輪に出場した日本代表は、シーズン中の8月に開催されたこともあって、ファームの若手が中心でした。3番ショートで出場した坂本は4安打2打点の大活躍。帰国後、星野監督は原監督に、“坂本はセンスがある。必ず巨人軍を背負って立つ選手になる”と伝えたんです」(全国紙運動部記者)
これが原監督の決断を促したという。
「08年、開幕戦でショートの二岡が故障すると、原監督はセカンドの坂本をショートにコンバート。以来、坂本は巨人の不動の遊撃手として、球界を代表する選手になりました」(前同)
名伯楽の指導で大リーグでスターになった選手もいる。二刀流・大谷翔平(現エンゼルス)も、その一人だ。
「彼が二刀流選手として活躍できたのは、それを許した日本ハム栗山英樹監督の功績が大きい。当時、球界の重鎮たちのほとんどが、投手か打者か、どちらかに専念するべきだと主張していました。そんな外野の声を無視して、栗山監督は大谷との初対面の場で“君を投手と打者の両方で使うつもりで指名した”と明言。大谷の心をわしづかみにして、日本ハムに入団させることに成功したんです」(プロ野球関係者)
栗山監督の擁護もあり、大谷は日本でプレーした5年間で投げては42勝15敗、防御率2.52、打っては打率・286、48本塁打の堂々たる数字を残した。海を渡った今も、メジャーで二刀流を貫いている。
そして、メジャー名門中の名門、ニューヨーク・ヤンキースで活躍する田中将大にも偉大な恩師がいる。
「今年2月に亡くなった野村克也さんです。打たれても、不思議と負けがつかないことから“マー君、神の子、不思議な子”と呼んだのは有名な話ですが、そんな野村さんが叩き込んだのが、“投げる球に窮したら、外角低め”という投球術の原点でした」(専門誌記者)
13年、楽天初のリーグ優勝がかかった試合で、野村監督の教えが生きた。
「田中は9回裏に抑えで登板。一死ながらランナー2人を背負うピンチに陥りますが、最後の2人を三振に打ち取り、優勝を呼び寄せた。このとき、2人に投げた8球はすべて外角低めのストレート。まさに『野村の教え』を忠実に守っての勝利でした」(前同)
現在発売中の『週刊大衆』7月6・13日号では、プロ野球総勢20人の「師弟の絆」について特集している。