「麒麟がくる」を10倍楽しむ!15代将軍・足利義昭が生きた室町時代を徹底解説 (2/2ページ)

Asagei Biz

時を同じくして新田義貞が大軍を率いて鎌倉を攻め、鎌倉幕府は尊氏と義貞という2人の武将の裏切りによって滅びます。その後、後醍醐天皇が直接政治を司る「建武(けんむ)の新政」を行うのですが、武士たちの活躍で政権を取ったにもかかわらず、恩賞は公家に厚く、武士に少なかった。そのため武士たちの不満が高まり、尊氏は後醍醐天皇の政権を倒して持明院統(じみょういんとう)の光明(こうみょう)天皇を立て、室町幕府を開くことになります。後醍醐天皇は奈良吉野に逃れて、そのまま南朝を興す。こうして、京都の北朝と奈良の南朝に分かれ、朝廷が2つ並び立つことになるのです」

 その後、後醍醐天皇が崩御し南朝の力はいったん衰えるも、今度は室町幕府内で、尊氏の弟の直義(ただよし)との、いわば兄弟ゲンカが発生。これを観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)と呼ぶ。

「直義は正当な朝廷は南朝だということで南朝に降伏、尊氏も南朝と和を結びますが、抗争は続き、南朝側は京都に何度も攻め込んで、以後60年間も、この混乱は続くことになります」(河合氏)

 この天皇や将軍の兄弟同士が骨肉の争いを演じた、室町時代の混乱の原因はいったい何だったのだろう。

「簡単に言えば、身内同士の土地・財産争い。それまで武士たちは嫡子=長男と兄弟たちの分割相続でしたが、この頃には単独相続に変わり、兄弟の内で最も優秀な人間しか財産を継げなくなった。そうなると、兄弟間で争うことになる。結果、弟が南朝についたのなら兄は北朝につこうとなって、南朝の利用価値が高まったのです」(河合氏)

 人間というのは、地位や金、なによりも食い扶持になびいていくのは、今も昔も変わりない。公家や武士たちの兄弟間の財産争い、相続ならぬ「争族」が、この室町時代の争いのもとだった。令和を生きる私たちにとっても身につまされる話ではないか。

河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。主な著書に「早わかり日本史」(日本実業出版社)、「大久保利通」(徳間書店)、「繰り返す日本史二千年を貫く五つの法則」(青春新書)など。

長谷川ヨシテル(はせがわ・よしてる)86年、埼玉県生まれ。漫才師としてデビュー後、歴史ナビゲーターとしてイベントや講演会などに出演。「れきしクン」のニックネームでタレントとしても活躍。著書に「ポンコツ武将列伝」「ヘッポコ征夷大将軍」(いずれも柏書房)など。

近藤正高(こんどう・まさたか)76年、愛知県生まれ。「クイック・ジャパン」(太田出版)の編集を経て、フリーのライターに。ドラマレビューを手がけ、大河ドラマについての執筆も多い。著書に「タモリと戦後ニッポン」「ビートたけしと北野武」(いずれも講談社現代新書)などがある。

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