古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った侍たち【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

三条河原に首が晒された近藤勇(Wikipediaより)

池田屋事件や禁門の変で活躍するも、新政府軍と旧幕府軍との間で起きた戊辰戦争で敗戦を重ね、千葉県の流山に屯集した。近藤たち隊士は会津を目指し進軍予定であったが、近藤は新政府軍によって捕縛。

1868年。板橋に存在した刑場で斬首。首は京都へ運ばれ三条河原で晒し首となった

斬首と晒し首の歴史

斬首刑の歴史は古く、日本においては平安時代には武士に対する処遇として行われていた。戦国期の武士の間では切腹後の介錯として用いられたが、庶民に対する刑罰としては斬首のみとされた。

晒し首の慣習は平安時代から存在した。時代によって方法は異なるものの、一般的には斬首刑に処された人物の首を台の上に乗せ、数日間見せしめとして放置した。落とした首を辱めたり、携帯して市中を練り歩くこともあったという。

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