戦国時代まで遡る、土佐の郷土料理「カツオのたたき」の表面が炙られている理由
古くから三寒四温と言うように、寒い日と温かい日を繰り返しながら春に近づいていく今日このごろ、そろそろ初鰹(はつがつお)の季節ですね。
鰹(かつお)は2月ごろから北上をはじめ、3月ごろに九州南部、5月ごろに本州中部、8~9月にかけて東北地方から北海道南部で獲れるようになり、そこからまた南へ折り返して「戻り鰹」となります。
さて、鰹と言えば高知県が有名ですが、中でも多くの方が郷土料理「カツオのたたき」を連想するのではないでしょうか。
カツオのたたき。そういえば、どうして表面をあぶってあるのだろう。
ところでカツオのたたきと言えば、刺身の表面があぶってあるのですが、あれは一体どうしてなんでしょう。
調べてみると、その由来は戦国時代にさかのぼるようで、今回はカツオのたたきにまつわる一説を紹介したいと思います。
「カツオを生で食すべからず」山内一豊の禁令天下分け目と名高い関ヶ原の合戦(慶長5・1600年)に勝利した山内一豊(やまのうち かずとよ)は、その功績によって土佐国(現:高知県)を与えられました。
「これでわしも、国持ち大名の仲間入りじゃ!」
妻と共に立身出世を果たした山内一豊。Wikipedia(撮影:立花左近氏)より。
喜び勇んだ一豊でしたが、赴任した土佐国では、関ヶ原に敗れて国を追われた旧主・長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)への義理立てもあって、とても歓迎ムードではありません。
「けっ、ろくに槍働きもせず、口先ばかりで成り上がった軟弱者が!」
対する一豊たちも土佐国を野蛮な土地(※)と見下していたようで、現地の風習になかなかなじめず、山内家と土着武士(長宗我部旧臣)たち両者の確執は幕末まで続くことになります。
(※)土佐は三方を険しい山々に囲まれ、また南の海も波が荒いため、昔から「陸の孤島」として流刑地とされていました。
そんな一つがカツオの刺身。いくら獲れたてとは言え、足の早い(傷みやすい)カツオを生で食べるなんて……さっそく一豊は禁令を出しますが、土着武士たちは聞く耳を持ちません。
「うるせぇんだよ、たまに食中毒(あた)るのが怖くてカツオが食えっかよ!」
「敵の矢玉に当たるのが怖い臆病者の指図なんぞ、土佐の男が聞くもんか!」
「ぐぬぬ……」
「もう堪忍ならぬ!」武力行使に及ぶ山内一豊(イメージ)。彼もまた槍一本で戦場を渡り歩いた武者であった。Wikipediaより。
口で言っても聞かないならば、実力で黙らせるよりありません。その後、山内家は反抗的な者たちを徹底的に弾圧。服従を強いるため、生活様式にも様々な規制が加えられ、カツオの生食も禁止されてしまいました。
「どうする?」
「しょうがねぇから、表面だけ焼いてやろうぜ。もし役人に見つかっても『あぁすんません。生焼けでした~』とか言い逃れりゃいいや」
という訳で、土佐国ではカツオの表面だけをあぶったスタイルが現代に伝わったということです。
土佐の反抗心が生み出した「カツオのたたき」しかし、いざカツオの表面をあぶってみるとこれがなかなか香ばしく、生の部分と相まって絶妙な味わい。焼き方や薬味ダレの工夫によって意外にヒットしたようです。
これが表面だけでなくお達しどおり完全に火を通していたら、きっとパサパサ過ぎてすぐに廃れてしまったかも知れません。少しでも生の部分を残してやろうと表面だけあぶった工夫(ささやかな抵抗?)が功を奏したのでした。
土佐の反抗心が生み出した「カツオのたたき」、今年も初鰹が楽しみですね!
※参考文献:
平尾道雄『平尾道雄選集 第二巻 土佐 庶民史話』高知新聞社、1979年11月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan