大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯 (6/8ページ)

Japaaan

いざとなったらお護りできるよう、やはり軍勢を揃えておくべきだ」

上野戦争の死闘。月岡芳年「東叡山文殊樓焼討之図」より。

そこで新五郎は喜作や平九郎らと共に振武隊(しんぶたい)を結成。上野戦争(5月15日)に敗れた彰義隊の残党も受け入れておよそ1,500名に膨れ上がった5月18日、武蔵国高麗郡飯能(現:埼玉県飯能市)の能仁寺に布陣します。

しかし、官軍がこれを見逃すはずもなく、5月23日に3,500名の軍勢で能仁寺を攻撃。後世に言う飯能戦争の始まりです。

「ぐわっ、撃たれた!」

「喜作、しっかりせぇ!傷は浅いぞ!」

「兄上、後方から敵襲!」

戦闘は半日ほどで終了、新五郎は銃撃で負傷した喜作を抱えて伊香保(現:群馬県渋川市)まで逃げ延びましたが、平九郎は逃げきることが叶わず、切腹して若い命(享年22歳)を散らしたのでした。

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