幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【前編】
江戸時代後期から幕末にかけて、欧米列強の動きはアジア全体に及んできました。3代将軍徳川家光の代から始まった、鎖国政策をとる日本も例外ではありませんでした。
特にオホーツク海を隔てたロシアは執拗に開国と通商を日本に求めたものの、拒絶する江戸幕府と険悪な状況に陥り、樺太などに武力をもって攻撃を仕掛けてきたのです。
こうした動きに対処するため、幕府は会津藩に北方警護を命じます。会津藩の北方警護とその後について紹介しましょう。
執拗に開国と通商を迫るロシア
ラクスマンが乗船したエカチェリーナ号。(写真:Wikipedia)
江戸時代の歴史で最重要項目とされるのが鎖国です。
3代将軍徳川家光の時代、スペイン・ポルトガル船の来航を禁じ、さらには日本人の海外渡航を禁じた法律でした。
諸説がありますが、1641(寛永18)年にオランダ商館を出島に移したことで完成をみたとされます。
そして、1853(嘉永6)年のペリーの来航を経て、翌年に日米和親条約が締結され、約200年振りに鎖国は終焉しました。
しかし、鎖国が終わりを告げたのは、ペリー来航以前から欧米諸国による様々な働きかけがあったのです。特にロシアの動きは活発で、1792年(寛政4年)に使節として、アダム・ラクスマンが、通商の許可を求め根室を訪れます。
ラクスマンは、回船船頭の大黒屋光太夫ら6人を伴っていました。彼らは、いずれも漂流民で、ロシアに保護されていた人々です。この時幕府は、そのお礼として長崎港への入港を許可しました。
【ロシア外交官が激怒】そして、1804(文化元)年に、ロシアの外交官であるニコライ・レザノフが出島(長崎)に来航し、半年にわたり通商交渉を行いましたが、幕府は拒否したのです。
半年待たされた上、交渉を拒否されたレザノフは激怒します。そして、樺太の松前藩居留地、択捉島の幕府軍を攻撃したのです。
さらに、ロシアは実力行使に出ます。1806(文化3)年、ロシアの武装船は、再び樺太を襲い、日本の運上屋、番屋、倉庫などを襲い、物資を強奪した上に、日本人を拉致しました。
そうした行為は翌年も続き、蝦夷沖を航行する日本の商船を襲い、物資を奪う事件が頻発したのです。
ラクスマンに伴い、帰国を果たした大黒屋幸太夫と磯吉。(写真:Wikipedia)
蝦夷防衛のために各藩藩士を派遣する
こうしたロシアに対して、江戸幕府は早急な北方警備の必要性に迫られます。
1807(文化4)年、幕府は、弘前(津軽家10万石)・秋田(佐竹家20万石)・盛岡(南部家20万石)・庄内(酒井家14万石)の各藩に命じ、総勢3千名を蝦夷防衛のために派遣したのでした。
この派遣では、幸いなことにロシアとの交戦はありませんでした。
しかし、知床半島北側の斜里で防衛にあたった津軽(弘前)藩では、100人中70人が寒さや風土病で亡くなるという惨事が起きてしまいました。
本州最北端に暮らす津軽藩士は、寒さに慣れていたはずです。しかし、真冬のオホーツク沿岸の想像を絶する自然の厳しさは、容赦なく襲いかかってきたのです。
こうした状況をみた幕府は、北方警備の再構築を図ります。1808(文化5)年、函館・国後・択捉の警備を仙台藩に命じ、さらに、会津藩をして、樺太・宗谷・利尻島・松前の警備を命じたのでした。
会津藩が危険を冒しても派兵した理由東北諸藩の抑えとしての役目を担った会津若松城。(写真:Wikipedia)
会津藩にとって北方警備のために藩士を派遣すること、特に樺太・宗谷・利尻島といった最北端の地への派遣は、津軽藩の惨事からもわかるように大変危険を伴うものであったはずです。
しかし、驚くことにこの派遣は、会津藩が内々に幕府に願い出て、それを幕府が認めたという事実があったのです。
北方警備は藩士の命を危険にさらすだけでなく、藩にとっても大変な出費を強いられる事業でした。
幕末当時、多くの藩は財政難にあえいでいましたが、会津藩もご多聞に漏れず、超財政難といった状況にあったのです。
北方警備派遣時の藩主・松平容衆。(写真:Wikipedia)
では、なぜ会津藩は自ら北方警備を願い出たのでしょうか。その答えは、会津という場所にありました。
会津は、奥羽の喉元に位置します。幕府は、会津藩をして奥羽諸藩の抑えとしたのです。そのため、会津藩はその武威を幕府にも諸藩にも示す必要があったわけです。
北方警備を成功裏に成し遂げること、そして万が一ロシアと戦闘状態になったとしても、それに打ち勝つことが、会津藩の宿命であったのです。
【後編】に続く……。
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