幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【後編】 (4/4ページ)
藩兵達は順次、北方からの帰路につきます。しかし、折からの台風シーズンと重なり、海は大荒れの日が続き、大変な難儀であったようです。
そのため、早い隊で、8月23日、最終は11月28日に会津に到着したのです。
この後、会津藩は、北方警備の実績を幕府から認められ、江戸湾・房総警備を命じられます。藩主は、19歳で早世した容衆を継ぎ、容敬(かたたか)が就任していました。
英俊との誉れが高かった容敬は、幕府からの信頼も厚く、会津藩は、1000人以上の藩士を派遣し、江戸湾・房総各地に国防のための陣屋や砲台を築きます。
神奈川県観音崎。この地にも会津藩により砲台が築かれた。(写真:Wikipedia)
容敬(かたたか)は49歳で亡くなると、容保(かたもり)が後を継ぎました。幕府の会津藩編への依存は増々高まり、品川台場の建設を受け持ちました。
幕末前夜の北方警備から江戸湾・房総警備、そして、幕末の品川台場の建設を通じて、会津藩は献身的な活動を行います。
しかし、それが会津藩を幕末の動乱の渦中へと引きずり込んでいきました。そして、容保の京都守護職就任、さらには、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと続く、会津藩の悲劇に繋がっていくのでした。
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