炎上覚悟の不謹慎発言も本気!関東大震災後の東京を蘇らせた男、後藤新平が構想した「理想的帝都建設」 (2/5ページ)

Japaaan

1857年、現在の岩手県奥州市の水沢生まれ。水沢といえば戊辰戦争で敗れた藩で、後藤の家は「朝敵」のレッテルを貼られていました。しかしそんな境遇をはね返すかのように後藤は猛勉強して医者になります。

そして彼は内務省で衛生局長にまで上り詰めました。それから、当時の陸軍次官だった児玉源太郎との出会いがきっかけとなって、台湾の民政局長や南満州鉄道の初代総裁となり、「統治者」としての才覚を発揮していくことになります。

児玉源太郎

彼の都市改革の手法は、病人に治療を施すような手付きで社会体制を改善するというものでした。特に当時の台湾は財政破綻、抗日ゲリラの活動、アヘンの蔓延などの問題を抱えていましたが、これを「治療」し、産業の振興や鉄道の育成を果たしています。また、現在の台北の街の基礎を造ったのも彼です。

こうした経歴を経て、1920年に彼は東京市長に就任します。当時の東京は都市化が急速に進んでおり、近代産業や交通の発達、人口の急増に整備のスピードが追い付いていないという課題を抱えていました。

そこで後藤は、就任の翌年には大改造計画『東京市政要綱』を発表。予算の問題から現実化には至りませんでしたが、その後も道路を舗装したり、市政調査会を設けて海外の学者からアドバイスをもらったりするなど東京の改造のために精力的に活動します。

関東大震災…そして“あの人”も全面協力

そこで関東大震災が発生しました。

この時政界ではちょうど新しい内閣づくりが進められており、声をかけられていた後藤は東京復興のための入閣を決意。震災翌日には内務大臣と「帝都復興院総裁」を兼務することになりました。

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