意識高すぎ?江戸時代の儒学者・新井白石の蕎麦好きが高じて詠んだ漢詩作品がコチラ!
ごく私事で恐縮ながら、筆者は蕎麦が大好きです。皆さんは、いかがでしょうか。
好きと言うのは、蕎麦を味わうのはもちろんのこと、食べるまでのプロセス、いわゆる「蕎麦打ち」も好きです。
蕎麦粉に水を回して生地を練り上げ、平たくのして包丁で切り、グラグラと煮える鍋釜で踊らせてから、手が切れそうなくらいに冷たい水でギュッとしめて、よく水を切ったら無造作かつふわりと盛りつけ……想像するだけで、テンションが上がりませんか?
そんな「作るところからが蕎麦の味わい」という思いは昔の人も思っていたようで、今回は江戸時代の政治家・儒学者として知られている新井白石(あらい はくせき)を紹介。
後世「正徳の治」と呼ばれる幕政改革の大ナタを振るい、政敵からは「鬼」とまで恐れられた彼も、大の蕎麦好きだったようで、その喜びを漢詩にまで詠んだのですが、いったい、どんな作品なのでしょうか。
蕎麦打ち風景が目に浮かぶよう!新井白石「蕎麦麺」落磨玉屑白皚皚(まにおつ ぎょくせつ はくがいがい)
素餅団円月様開(そへいは だんえんとして げつようにひらく)
蘆倒孤洲吹雪下(あしはこしゅうにたおれ ゆきをふきおろし)
蓬飄平野捲雲来(よもぎはへいやにひるがえり くもをまきてきたる)
鸞刀揮処遊糸乱(らんとう ふるうところ ゆうしみだれ)
翠釜烹時疊浪堆(すいふ にるとき じょうろう うずたかし)
莱箙葷葱香満碗(らいふく くんそう かおり わんにみち)
肯将麻飯訪天台(あえてまはんをもって てんだいをとわんや)※新井白石「蕎麦麺」
【意訳】
石臼から挽きこぼれる宝石クズ(蕎麦粉)は雪霜のように白く輝き
練り上げられた生地はまん丸い月のようにのばされる
吹雪になぎ倒される中洲の蘆みたいに生地が折りたたまれ
俎板や生地にまぶされる打ち粉は渦巻く雲のようだ
鸞刀のような包丁を振るえば、まとまっていた生地が糸のように乱れる
グラグラと沸き立つ釜に投じれば、波高く麺が踊り回る
薬味の大根(莱箙)と葱(葷葱)をお椀に入れると至福の香りが満ちる
あえて胡麻飯(麻飯)を求めて天台を訪れる必要などあるのだろうか
……さすがはインテリと言うべきか、これでもかとばかりに蕎麦の魅力を引き出そうとボキャブラリーの限りを尽くしており、読んでいるだけで蕎麦の旨味が喉の奥からしみ出してくるようです。
これを読み上げた今、生唾を呑み込んだのは、きっと筆者だけではないでしょう。
皚皚、鸞刀、翠釜……言葉の限りを尽くした蕎麦絶賛漢詩の冒頭に出て来る皚皚とは白いこと、特に輝きを帯びた白さの表現であり、蕎麦粉そのものの透き通るような白さはもちろん、これからこれが美味い蕎麦へと生まれ変わる期待感、昂揚感が伝わってきます。
鸞刀とは鸞(らん。空想上の鳥)のデザインをあしらっており、古代中国で神様への生贄を屠殺する時に用いた特別な刀ですから、蕎麦の麺が形作られる重要なシーンを担うに相応しい表現と言えるでしょう。
また翠釜の翠とは「みどり」、この場合はグリーン(色)ではなく豊かなこと、つまりたっぷりのお湯がグラグラと沸騰し、波が幾重にもたたまれるように重なり立っている、蕎麦を茹でるのに理想的な状態を指しています。
薬味には大根おろしと刻みネギを入れており、その香りがお椀いっぱいに広がる……まさに至福の香りと言えるでしょう。
最後の「肯て麻飯を将て天台を訊わんや」とは、古代中国の逸話集『蒙求(もうぎゅう)』にある「劉阮天台」というエピソード(※)に基づいています。
(※)昔々、劉晨と阮肇という二人が天台山に迷い込んでしまい、川上から流れて来た胡麻飯のお椀をたよりに進んでいくと、山奥に仙女が住んでいて、最高に美味い胡麻飯でもてなしを受けたそうです。
……でも、いま目の前には究極に美味い蕎麦があるのだから、わざわざ胡麻飯なんか食いに天台山くんだりまで行く必要はないのである……と締めくくっています。
どんな講釈より、蕎麦の美味さは食うのが一番よく解る(イメージ)
これでもかと言葉の限りを尽くした蕎麦絶賛のオンパレード。いつか冥途の向こう側へ行ったら、白石先生の蕎麦談義を拝聴したいものですが、いざ蕎麦を目の前にしたら
「御託はいいから早く食え、蕎麦がのびちまうだろうが!」
などと言われてしまいそうな気もします。何だかんだと言っても、やっぱり蕎麦は一気に啜り込むのが一番ですしね(くれぐれも噎せないようご注意下さい)。
※参考文献:
鈴木健一『風流 江戸の蕎麦 食う、描く、詠む』中公新書、2010年9月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan