新紙幣の顔となる「津田梅子」留学からの帰国後、すっかり日本語を忘れてしまっていた? (2/3ページ)
このとき梅子が指導教官であるトーマス・ハント・モーガン博士と共同で執筆した論文はその後、“The Orientation of the Frog’s Egg”(「蛙の卵の定位」)として、イギリスの学術雑誌 ”Quarterly Journal of Microscopic Science, vol. 35, 1894.”にまとめられました。
このことから、梅子は、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性ともいわれています。
帰国した梅子は、その後、35歳のときに「女子英学塾」を創立。このときの資金や運営費は留学時の友人や支持者たちからの寄付などによるそうです。
その額は数百万円にも及んだとか。当時、外国人からだけの寄付でこれだけ集まったのは前代未聞のことで、津田梅子自身がいかに周りから高い評価を受けて期待されていたのかがよくわかります。
このように、語学に堪能で人望も厚く、教育者としての指名に燃えていた梅子でしたが、留学したのがあまりにも幼いときだったからか、なんと帰国後はすっかり日本語を忘れてしまっていたそうです。
日本に戻ったものの、日本語がわからず、日常生活にも不便が生じてしまい、英語を勉強していた妹に通訳してもらいながら、日本での生活を送っていたのだとか。
梅子の日本語の苦手っぷりを伝えるエピソードが残されています。あるとき梅子が外出中に言葉が通じずに困っているところに、たまたま通りかかった外国人がいました。