「鎌倉殿の13人」死角から現れる刺客は公暁か、あるいは…第43回放送「資格と死角」予習 (5/7ページ)

Japaaan

「……相州(時房)はまことに蹴鞠の骨髄を得ておる(當道すこぶるその骨を得る)」

後鳥羽上皇もしきりに感心され、つつがなくお役目を果たした時房。坊門清親(ぼうもん きよちか。千世の従兄弟)が宮中の作法をレクチャーしてくれたお陰だと感謝していました。

なお、時房たちは5月4日に鎌倉へ帰り着いています。

頼仁親王、鎌倉殿の後継者候補に

さて、政子が藤原兼子とたびたび会談したのは、鎌倉殿の「跡継ぎ問題」を話し合うためでしょうか。

……実朝ガアリシ時。子モマウケヌニサヤ有ベキナド。卿二位物語シタリト聞ヘシ名残ニヤ。カカル事ヲ申タリケル。信清ノヲトドノムスメニ西ノ御方〔坊門局〕トテ。院ニ候ヲバ卿二位子ニシタルガ腹ニ。院ノ宮〔長仁親王〕ウミ参ラセタルヲ。スグル御前ト名付テ。卿二位ガ養イマイラセタル。初ハ三井寺ヘ法師ニ成シマイラセントテ有ケル。猶御元服アリテ親王ニテヲハシマスヲ。モテアツカイテ位ノ心モ深ク。サラズハ将軍ニマレナド思ニヤ……

※慈円『愚管抄』第六巻より

【意訳】かつて、実朝に子供がいないことについて、藤原兼子(卿二位)がこんなことを言っていた。「西御方(にしのおんかた。坊門局、坊門信清の娘)が産んだ後鳥羽上皇の皇子を将軍(鎌倉殿)にしてはどうか」と。

すぐる御前と名づけられ、はじめは出家していたものの、元服を機に還俗。彼が頼仁親王(よりひとしんのう)です。

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