死者への尊厳や畏敬の念が欠けつつあることと葬儀の簡素化との関係 (2/2ページ)

心に残る家族葬

男は他人の墓碑に土足で上り、卒塔婆を振り回しながら奇声を上げるなどし、撮影した動画をアップしていた。例によって再生回数を増やす目的だったようである(詳細はこちら)。

礼拝所不敬罪(刑法188条)とは、墳墓発掘罪(刑法189条)と並び、墓場で敬意を欠いた罰当たりな行為をしてはいけないということである。法律というより倫理、それも子供でもわかる当たり前の常識である。このようなことをするような者には「罰当たり」などという言葉は一切通じないのだろう。そんなものは全く畏れないからだ。

なぜ死者を畏れ、敬わなければならないのか。死者は神様仏様になる。よく刑事ドラマなどで遺体を「ホトケ」と呼ぶが、死者はこの世ならざる世界に行き、この世ならざる存在となる。神仏と同じ超越的な存在なのである。そのような感覚は科学至上主義の現代では失われつつあるのだろうか。

■問われる「想い」

近年は簡易的な「直葬」をする家庭が多くなっている。確かに簡素ではあるが実際にはそこまで事務的というものでもない。遺族が心を込めて見送るなら問題はないだろう。経済的な事情もあるなら故人も納得しているはずである。そこに畏敬の念があるかどうかが大切なのだと思う。いくら立派な葬儀が執り行われても、参列者があくびをしていてはどうしようもない。

遺体はその人を知る人の、これまでの想いそのものである。共に笑い怒り泣いた時間が詰まっている。だからこそ私たちは「お疲れ様でした」「今までありがとう」という言葉で送るのである。私たちは参拝や墓参を通じてこの畏敬の念を育んできたはずだ。無宗教、無神論者だから墓参りには行かないというわけでもないだろう。神仏や霊魂の存在を信じていなくても、常識のある人間なら墓参には行く。この当たり前のしかし大切な感性が急速に失われつつある。葬儀離れの時代、死者への想いが改めて問われている。

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