なぜ徳川家康はたった2年で引退した?「駿府政権」の本当の意義を考える (2/3ページ)

Japaaan

豊臣秀頼像

さらにいえば、秀頼は徳川秀忠よりも地位が高く、世間では秀頼が次期関白であるという噂も流れていたといいます。そこで家康は、自分の息子に将軍職を継がせて、世は徳川の天下であることをしっかり見せつけたのです。

家康は将軍職を退いたものの、その後も大御所(前将軍のこと)と呼ばれながら政治を主導していきます。彼が拠点としたのは駿河の駿府城ですが、これは大坂に豊臣氏がいることを踏まえてのことでした。駿河は江戸よりも大坂に近いので、にらみを利かせる意図もあったのでしょう。

ちなみに、家康が死ぬまで政治を行った駿府城は、安土城や大坂城と比べて知名度が低く地味な印象です。また天守も焼失してしまったので、どのような建物だったのかは推測するしかありません。

しかし最近の発掘調査によって、駿府城の天守を載せた天守台は日本一のサイズで、江戸城よりも巨大な城だったのではないかとされています。

駿府政権の政治体制

さて、こうして家康は、いわば駿府政権として政治を行い、駿府城には政治・外交・寺社政策などの重要な分野に詳しい人たちが集められました。例えば有名な家康のブレーンである天海僧正、学者の林羅山などが挙げられます。

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