「信長公記」で辿る。徳川家康ご一行、安土城で織田信長に歓迎されるの巻【どうする家康】

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「信長公記」で辿る。徳川家康ご一行、安土城で織田信長に歓迎されるの巻【どうする家康】

……五月   君右府の居城近江の安土にわたらせたまへば。穴山梅雪も志たがひ奉る。右府おもたゞしき設ありて幸若の舞申楽など催し饗せられ。みづからの配膳にて御供の人々にも手づからさかなを引れたり。……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十年「家康赴安土城」

「今度はわしがもてなしてやる」

ぶらり富士遊覧が成功に終わり、上機嫌の織田信長(演:岡田准一)に安土城へ誘われた徳川家康(演:松本潤)。

このイベントについて、江戸幕府の公式記録『徳川実紀』では上のようにアッサリ書かれるのみですが、もてなす側の信長たちはどのように見ていたのでしょうか。

今回は信長の側近・太田牛一(おおた ぎゅういち)の日記『信長公記』より、その様子をたどってみたいと思います。

5月14日、近江馬場城にて丹羽長秀のお出迎え

丹羽長秀(画像:Wikipedia)

五月十四日 江州之内ばんば迄 家康公 穴山梅雪御出也 惟住五郎左衛門ばんばニ假殿を立起雑掌を構一宿振舞申さるゝ……

※『信長公記』巻之下 ○巻之十五(天正十年壬午) (二十五)家康公穴山梅雪御上洛之事

天正10年(1582年)5月14日、家康と穴山梅雪(演:田辺誠一)が近江の馬場城(ばんばじょう。滋賀県大津市)までやってきました。

「ようこそ徳川様、遠路はるばる江州までお越し下さいました」

出迎えてくれたのは惟住五郎左衛門(これずみ ごろうざゑもん)。歴史ファンなら丹羽長秀(演:福澤朗)と呼んだ方がピンと来るでしょうか。

「粗末なところで恐縮ですが……」

と、城内に仮設の宿舎を用意してくれていたので、家康たちはそこで一泊したのでした。

5月15日~17日、安土に到着。明智光秀のおもてなし

明智光秀(画像:Wikipedia)

五月十五日 家康公ばんばを被成御立安土ニ而御参着御宿大宝坊可然之由 上意ニ而御振舞之事 維任日向守尓被仰付京都堺尓て調珍物生便敷結構尓て十五日より十七日迄三日之御事也……

※『信長公記』巻之下 ○巻之十五(天正十年壬午) (二十五)家康公穴山梅雪御上洛之事

明けて5月15日。馬場城から安土城まではざっくり20キロ、琵琶湖をへだてて北東に向かいます(浜松から行ったのだとしたら、逆戻りする道程になりますが、何か理由があったのでしょうか)。

宿舎に到着した家康を出迎えたのは、惟任日向守(これとう ひゅうがのかみ)こと明智光秀(演:酒向芳)。京都や堺に出向いて珍しい料理やお土産などを取りそろえてくれました。

こうした5月17日までの三日間、家康は手厚くもてなされたのです。

5月19日~20日、信長と一緒に舞台見物

「職人尽歌合(七十一番職人歌合)」より、猿楽(左)

五月十九日 安土御山於惣見寺 幸若八郎九郎大夫ニ舞をまハせ次之日ハ四座之内ハ不珍丹波猿楽梅若大夫ニ能をさせ 家康公被召列候衆今度道中辛労を忘申様尓見物させ申さるへき旨 上意ニ而御桟敷之内 近衛殿 信長公 家康公 穴山梅雪……

※『信長公記』巻之下 ○巻之十五(天正十年壬午) (二十七)幸若大夫梅若大夫事

「よく来たな。一緒に舞台を見に行こうじゃないか」

先月の富士遊覧道中で別れて以来、寂しかった信長は大喜びで家康たちを迎えます。安土城内に建立した惣見寺で、八郎九郎大夫(はちろうくろうだゆう)の幸若舞を見物。

特等席の座順は、太政大臣の近衛前久(このゑ さきひさ)・信長・家康そして穴山梅雪(以下略)。家康と一緒で、さぞ嬉しかったことでしょう。

翌20日は梅若大夫(うめわかだゆう)に猿楽を舞わせ、昨日の幸若舞ともども実に見事なものでした。これには家康も道中の苦労を忘れ、心ゆくまで楽しんだようです。

5月20日、信長自らおもてなし

上機嫌で舞を披露する信長(イメージ)落合芳幾筆

五月廿日 惟住五郎左衛門 堀久太郎 長谷川竹 菅屋玖右衛門 四人尓 徳川家康公御振舞之御仕立被仰付御座敷ハ高雲寺御殿 家康公 穴山梅雪 石河伯耆 酒井左衛門尉 此外家老之衆御食被下忝も 信長公御自身御膳を居させられ御崇敬不斜御食過候て 家康公御伴衆上下不残安土御山へ被召寄御帷被下御馳走申計なし

※『信長公記』巻之下 ○巻之十五(天正十年壬午) (二十七)幸若大夫梅若大夫事

信長は丹羽長秀と掘秀政(ほり ひでまさ。久太郎)、長谷川秀一(はせがわ ひでかず。竹、竹丸)そして菅屋長頼(すがや ながより)の4名を家康の接待役に指名。高雲寺(こううんじ)御殿にて盛大な饗宴が開かれました。

この時、家康と一緒にいたのは石川数正(演:松重豊。伯耆)・酒井忠次(演:大森南朋。左衛門尉)など。

上機嫌の信長は、彼ら家臣たちに対しても自らお酌してやったと言います。泣く子も黙る「第六天魔王」のお酌なんて、さぞ恐ろしかったことでしょうね。

家康と信長、永の別れ

安土城の天守閣(イメージ)

楽しい時間はあっという間に流れ過ぎ、家康は京都へ出立します。

「徳川殿、また呑もうな」

「えぇ。楽しみにしております」

先月の富士遊覧で別れた時は寂しかったけど、今月こうしてまた会えた。だからまた、来月も会えるに違いない。だから信長も寂しくなかったことでしょう。しかし「また」が二度と来なかったのは、広く知られる通りです。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が横死を遂げてしまいます。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、この辺りがどのように描かれるのか、とても楽しみですね!

※参考文献:

『我自刊我 信長公記 巻下』国立公文書館デジタルアーカイブ

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