義を守らずんば…豊臣秀吉の誘いを受けた大久保忠世の答えは【どうする家康】 (2/4ページ)

Japaaan

慈愛深き性格で、彼に仕えた誰もが「あの人のためなら、生命も惜しくない」と心酔するほど。

それで数々の合戦で先登(せんど。一番乗り)の武功を重ねるのであった。

……文中にある小田原四萬五千石というのは、他でもない秀吉から授かったもの。
時は天正18年(1590年)、秀吉が関東の覇者・北条一族(小田原北条氏)を下した後の事です。

関白の権威と天下の軍勢をもってしても……

右田年英「英雄三十六歌撰 羽柴秀吉」

「七郎右衛門よ。そなたは徳川家中きっての名臣なれば、関東の抑えとして小田原と箱根の45,000石を任せる」

秀吉からの恩賞により、晴れて忠世は城持ち大名に出世のでした。

「ははあ、ありがたき仕合せ」

喜んで受けた忠世。しかしそこには、秀吉の思惑がありました。

「ところで、七の字。

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