元は公家出身のヤンチャ小僧!最後の元老・西園寺公望はどのような政治家だったのか?【中編】

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元は公家出身のヤンチャ小僧!最後の元老・西園寺公望はどのような政治家だったのか?【中編】

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元は公家出身のヤンチャ小僧!最後の元老・西園寺公望はどのような政治家だったのか?【前編】

桂太郎との友情

後に首相の座に就いた西園寺公望ですが、彼の内閣を説明するのに欠かせないのが「桂園時代」です。伊藤博文が結党し西園寺が二代目総裁になった政友会と、山縣有朋の派閥(山縣閥)は対立関係にありましたが、西園寺と、山縣有朋の懐刀・桂太郎との間には不思議な友情がありました。

そして二人が、いわば出来レースのような形で交代しながら政権を担当した、明治後期の1901年から大正末期の1923年までの十年ほどの期間を「桂園時代」と呼びます。

実際には最初から完全に諮った出来レースではなく、政権を譲る(禅譲)にあたり一方が条件を付けるなどの駆け引きもありました。

ざっくり言えば政党(政友会)に属する西園寺は政党政治家サイドで、山縣閥とそれに属する桂太郎らは軍人政治家サイドでした。

桂太郎(Wikipddiaより)

まだ政党政治が始まっていない時期の、この二人による「桂園体制」は独特のもので、後の政党政治における「憲政の常道」の原型と言えるかも知れません。

いろいろ対立の芽はあったものの、西園寺と桂の間には不思議な信頼関係があり、それぞれの妾を同伴して酒を酌み交わすことすらあったそうです。

桂園時代へ

「桂園時代」に入る経緯は次の通りです。

西園寺は、1906年に二代目の政友会総裁に就任し、桂太郎から政権を譲られました。

先の日露戦争で、日本は一応の勝利を収めましたが、ポーツマス講和条約の内容が屈辱的だとして国民は不満を抱いており暴動まで発生しています。しかし政府としては何としても講和条約を締結する必要があり、時の総理大臣・桂太郎と政友会の原敬は会談を行いました。

原敬の胸像

その結果、政友会も講和条約に賛成することになり、その交換条件として桂が西園寺に政権を譲るという密約を交わします。第一次西園寺内閣はこうして成立しました。

その際西園寺は、桂から、政友会の勢力があまり大きくならないことを条件として出されていました。

そこで、政友会から入閣した大臣は原敬など少数にとどまり、内容としては政友会と山縣・桂系の派閥の連立内閣のような形になります。

こうして政友会のような政治政党と、山縣・桂が率いる藩閥勢力は、お互いに無視できない関係になっていきます。

双方の橋渡しを行い、政権交代がスムーズに進むための交渉役として活躍したのが原敬でした。

桂園時代の西園寺内閣の実績

「桂園時代」の、西園寺・桂による政権交代は四回行われています。この間、西園寺内閣によって行われた鉄道国有化・南満州鉄道会社(満鉄)の設立・二個師団増設などは、元老の意に沿ったものや桂内閣の政策を引き継いだものでした。

また日本社会党の設立も認めており、内相だった原敬は山縣有朋の牙城だった内務省の掌握に努めました。さらに貴族院の有爵議員から閣僚を登用して、山縣派の閣僚出身議員に対抗しています。公家出身ならではの政策として、数多くの文化政策も取り入れられました。

外交面では、日仏協約・日露協約を結び、第三次日韓協約で朝鮮の内政権を獲得しています。こうして西園寺は、本格的な政党政治へ着実に日本の政治を進めていきました。

西園寺は、日露戦争の後始末として、その後の外交を的確に展開させたと言えます。また伊藤博文から原敬への橋渡しも上手に行いました。

伊藤博文や西園寺公望が奉られている七賢堂

ただ政界工作はほとんど原敬に任せきりで、その政見は漠然としており受け身なところがあったようです。

社会主義思想の規制を緩和するなど、フランスで自由主義を学んだ西園寺ならではのリベラルなやり方は西園寺に独特のものですが、新しい政策を次々に生み出していくエネルギッシュさは、桂太郎の方が突出していたと言えるでしょう。

参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年

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