日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【中編】 (2/4ページ)

Japaaan

桂太郎と「桂・タフト覚書」を交わしたアメリカ特使ウィリアム・タフト陸軍長官(Wikipediaより)

しかし、なんとか日露戦争を何とか乗り切ったものの、日本が賠償金を獲得できないなどの講和内容に不満を抱いた民衆が暴徒化し、1905年9月5日に日比谷焼き討ち事件が発生します。

実際には、この騒動はポーツマス条約への不満だけではなく、当時の社会情勢に対する国民の鬱憤が一気に噴き出したものだったのですが、ともあれ政府施設・新聞社・交番が暴徒によって襲われ、東京は一時無政府状態に陥って戒厳令が敷かれました。

また財政難の問題もありました。日露戦争には当時の国家予算の二倍もの費用がつぎ込まれていたのです。桂は、この状況では政権継続は困難だと判断し、水面下で政友会の原敬と交渉を進めました。これがきっかけで、有名な「桂園時代」が誕生します。

桂と政友会の関係

少し話は前後しますが、もともと日露戦争の軍備増強の財源については、「増税」によって行うとする政府と、「行政改革による捻出」によって行うべしと主張する政友会との間で論争になっていました。で、1903年3月の総選挙の結果、政友会が勝利しています。

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