清少納言の夫は誰?道兼の妻のその後、独裁政治の幕開け…大河ドラマ「光る君へ」4月7日放送回振り返り (6/7ページ)

Japaaan

ききょう(清少納言)の離婚

藤原定子(右)に仕える清少納言。鳥居清長筆

内裏に女房として出仕したい意欲を見せる”ききょう”。夫も息子も捨て、自分のために生きたいという彼女に刺激を受けるまひろでしたが、一面その自由ぶりを羨んでいる節も見受けられました。

今後、ききょうの活躍はたくさん見られるでしょうから、今回は捨てられた?夫・橘則光(たちばなの のりみつ)について軽く触れておきましょう。

橘則光は康保2年(965年)、橘敏政(としまさ)と右近尼(うこんのあま)の間に生まれました。

母は花山天皇の乳母であったため、自身も乳兄弟として相応に扱われたものと考えられます。

しかし寛和2年(986年)に花山天皇が突如出家してしまったこと(寛和の変)から一転冷遇されたことでしょう。

長徳元年(995年)に六位蔵人として政界デビューを果たすと、のちに修理亮(すりのすけ)や左衛門尉(さゑもんのじょう)などを歴任します。

盗賊の襲撃を受けるも返り討ちにするなど武勇と胆力にすぐれた則光でしたが、風流に関することは苦手だったそうです。

気の利いたことが言えないあまり、口にワカメを詰め込んで難を逃れたエピソードが伝わっています。

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