「代打はそんなに難しくない!」
7月31日の中日戦、代打で逆転のタイムリーを放ち、試合後お立ち台に昇った狩野恵輔は代打についてこう表現した。
このコメントを聞いて、昨年引退した3代目“代打の神様”関本賢太郎のこの言葉を思い出した。
「そもそも代打に出ていって、打てるはずがない!」
関本の理屈はこうだ。
ゲーム終盤に登板する抑え投手は、チームでは粒ぞろいの好投手が控えている。その投手が短いイニングを全力で投げてくる球など打てっこないというわけだ。
関本とはまったく正反対の狩野の代打への認識。
狩野がさりげなく発した言葉の真意を確かめる意味でも、狩野恵輔という男のこれまでの野球人生を振り返ってみた。
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■ツキのない野球人生
狩野は前橋工業高校から2000年のドラフト3位で阪神に入団。捕手にしては足が速く、長打も打てるパンチの効いた打撃も、売りの選手だった。
捕手という経験を要するポジションゆえ1軍昇格までには時間を要したが、2006年にウエスタン・リーグで首位打者に輝くと、翌2007年には初の開幕1軍に抜擢。このシーズンは代打や代走要員で、ほぼ1軍に定着した。
しかし、2008年は矢野燿大の後釜として正捕手の座を期待されるも、右ヒジ手術の影響で出遅れる。
チャンスが回ってきたのは2009年。矢野が故障で開幕に間に合わず、1年を通して127試合に出場。
正捕手の座をつかんだかと思わせたが、この年のオフ、電撃的にメジャーリーグから城島健司が入団する。
このあたりから、狩野のツキのない野球人生がはじまる。
筋書き通り城島に捕手の座を奪われ、外野にコンバートされた狩野は、シーズンオフに椎間板ヘルニア除去手術を受ける。
それ以降、ヘルニアの再発を繰り返し、2012年のシーズンオフには育成契約選手に。もう後がない状態に追い込まれる。
2013年7月に支配下登録選手として復帰してからは、主に代打としてベンチで出番を待つ日々が続く。