田中角栄「名勝負物語」 第二番 福田赳夫(6)

| 週刊実話

 昭和47年(1972年)7月5日の東京・日比谷公会堂での自民党第21回臨時党大会。いよいよの「角福」両雄が、総裁選で雌雄を決する投票の場である。

 田中角栄はその直前の地元・新潟での自らの後援会「越山会」の講演会で、“その日”を迎える心境をこう明かしている。
「総裁になるということは、田舎から出てきた女が、料亭の下働きから始めて女中になり、やがてそこの家の女将になるようなもんだ。大変なことなんだ」と。

 第1回投票には、すでに田中との間で決選投票になった場合は田中支持に回るとの“密約”を結んでいた大平正芳、三木武夫も出馬した。結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票であった。田中と福田の差はわずか6票。田中は1位を確保したものの「ちょっと少ないな」と渋い顔を見せ、福田もまたバックにいた佐藤栄作首相による「二人は君子の争い、決選投票になった場合は1位になった者に2位が協力すべき」の言葉から、1位をのがした無念さがにじんでいた。

 誰もが過半数を獲れなかったことにより、決選投票となった。福田は6票差だったことも手伝い、まだ勝利の余地はあるとして、佐藤の言葉に従わず決選投票を辞退することはなかった。決選投票は、田中が第1回投票の大平、三木両派の票を上積みする形で280票、福田は190票と大差となったのだった。

 福田は佐藤の“意向”と党内影響力に期待したが、時に世界情勢は「米中接近」が進むなど大きく変化しており、一方で、党内には「日中国交回復」の必要性も声高く、「福田は佐藤の亜流で日中国交回復はムリ」との見方も少なくなかったことも響いた。また、佐藤内閣のこの期の支持率は、史上最低となる16%まで落ちていたこともあり、党内影響力は極めて限定的になっていたことも福田には痛手だったのだった。

 さて、自民党総裁に決まり、首班指名で首相の座に座ることになった田中の人気は爆発だった。それまで官僚出身の首相が続いた反発も手伝ってか、学歴も尋常高等小学校卒業の叩き上げだったことから、「今太閤」「庶民宰相」の声の中で、新内閣の支持率は史上最高の68%に達した。しかし、田中自身は浮かれることなく、こう身を引き締めた。
「一兵卒として前線に赴く気持ちだ。

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