「個人主義や個の尊重」の台頭と「家制度や家系」の崩壊による弊害

| 心に残る家族葬
「個人主義や個の尊重」の台頭と「家制度や家系」の崩壊による弊害

葬儀不要、墓じまいなど、先祖供養や「家」への意識が弱まっていると感じる。その理由には墓の維持費など経済的な問題が大きいとしても、伝統的な家族関係に対する意識が低迷していることも大きいだろう。また、血縁・地縁といった「ムラ社会」を感じさせる、旧態依然とした慣習・風習に対する抵抗感もあるのだろう。そのひとつに「家系」がある。

■核家族と「個の尊重」

戦後の経済成長期に多くの若者が集団就職などで地方から都会に上京してきた。彼らが都会における家族の第1世代になり、子を産み2世代となり、いわゆる核家族となった。これが遠方の墓の維持などの問題の遠因となる。

こうした上京世代は「家」の束縛から自由になったことで、個人主義に走りやすくなった。時代も「個人・個性」が強調されはじめてきた時代でもあり、経済成長と共に昔ながらの伝統を軽視する流れになっていく。この流れはバブルが始まりピークに至り、個の尊重、性の解放などが叫ばれ、現代では「友達親子」などの現象が生まれた。親子間にも伝統的な上下関係がなくなりつつあり、「家」の感覚が薄らいできた。このような時代に家系なるものの形骸化は必然といえる。

■家系と過去帳の意味

しかし家系とはそれほど旧態依然とした悪役なのだろうか。我々は無から生まれたわけではない。両親の間に生を受け、両親もその両親からと、脈々とつながる生命の連関の末に我々はいる。その流れは悠久の時間、歴史であり、生命の不思議、存在の神秘ともいえる。鎖のどこが途切れても、いま、ここに「私」はいない。これを振り返り実感できるのが家系である。

筆者の実家は浄土真宗の檀家だが仏壇には「過去帳」がお供えしてある。過去帳は代々、その家の故人の戒名、俗名、死亡年月日、享年などが記録されているもので、江戸時代には檀家制度による戸籍の役目を担ったとされている。特に真宗では基本的に位牌がないため、過去帳が仏壇に置いてある。真宗では故人は極楽浄土に往生しているので、魂の依代である位牌は置いていない。ではなぜ過去帳はあるのか。仏教では「縁起」を重視し、様々な縁があって我々がいると説く。

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