田中角栄「名勝負物語」第六番 竹下 登(3)

| 週刊実話

 竹下登は昭和33(1958)年5月、自民党公認として、当時、中選挙区制の島根全県区から総選挙に出馬、初当選を飾った。34歳である。

 のちに「盟友」関係となり「参院のドン」として君臨した青木幹雄(元参院議員会長)は、まだ早稲田大学の学生で、街頭演説をやるなど同大学雄弁会の先輩にあたる竹下の選挙運動に張り付いていたものだった。

 当選後、入った派閥はのちに首相となる佐藤栄作率いる佐藤派で、そこで、以後、緊張感のある関係を保ち続けた田中角栄と出会うことになる。

 竹下が初当選を飾ったとき、田中は4期目の当選を果たし、その前年にはNHKラジオ『三つの歌』でヤクザ礼賛かと抗議も出た浪曲をウナり、「型破り郵政大臣」として知名度を上げていた。

 その頃の田中は、竹下とやがては緊張感のある関係になるとは、まったく思っていなかった。なぜなら、佐藤派内での竹下の存在は目立つものではなく、田中の竹下に対する評価も、また低かったからだった。田中が竹下という政治家を意識するようになるのは、竹下初当選から7年ほど経ち、田中が自民党幹事長となった頃からである。

 竹下はのちに首相の座を降りて間もなく、筆者のインタビューにこう答えてくれたことがある。

 「田中先生を初めて凄いと思ったのは、幹事長の頃に見せた政治的直感力だった。天才的なものを感じた。一方で、田中先生から政治のイロハを習ったということはなかった。どちらかと言えば、僕は佐藤(栄作)先生の背中を見ながら学んだという気持ちが強い。その意味では、僕の『政治の師』は佐藤先生で、田中先生は『政治の先輩』という位置づけだな」

 口の重いことで知られた佐藤だったが、竹下に珍しく、直接、こう言ったことがあった。

 「竹下君、これだけは覚えておきなさい。人間は口は1つ、耳は2つだ。言いたいことを抑えても、人の話はよく聞くことだ。相手の言い分を、トコトン聞いてやる。必ず、役に立つときがくる」

 こうした佐藤の言葉を忠実に実行した竹下には、自分のことは抑えて我慢に徹することから、やがて「政界のおしん」との形容詞が付くこととなった。不満があっても一切口にせず、与えられた仕事に徹する姿勢を評した周りの声である。

ピックアップ PR 
ランキング
総合
社会