田中角栄「名勝負物語」 第六番 竹下登(4)

| 週刊実話

 竹下登には「政界のおしん」と言われたように我慢、辛抱を哲学とした政治手法が目立った一方、その絶妙な「調整名人」ぶりは戦後政治家の中で及ぶ者はいなかった。

 田中角栄が「情と利」を使い分けての硬軟とりまぜた手法で懸案を解決していったのに対し、“竹下流”は「情と利」の使い分けの一方で、最後まで相手をガツンと追い込むことをしないのが特徴だった。それでも、最後は自らの描いた落としどころへ、キチンと落としてみせるのだから凄かった。竹下の代名詞でもあった「待ちの政治家」は、ここから来ていた。

 竹下と親しかった二人の元政治部記者が、次のようなエピソードを語っている。
「相手を説得するときのねばり強さは、飛び抜けていた。例えば、自社対決の頃の国対副委員長時代に、社会党の国対幹部と会うとする。初めは、自社両党の主張がかけ離れていてラチがあかない。しかし、竹下は自民党の主張はできるだけ抑え、社会党の言い分をとことん聞くところから始める。その中で、話し合いの糸口をつくっていく。なんだかんだやっているうちに、やがて落としどころが見えてくる。竹下は言っていた。『私の調整の手法は、“説得しつつ推進し、推進しつつ説得する”ことに尽きる』と。竹下内閣が昭和63(1988)年12月、わが国初の3%消費税の導入を正式決定する中で、自民党内、野党を説得したのも、こうした手法によるものだった。竹下だから、あの時期に消費税導入は可能になったと言ってよかった」

「竹下の凄さは、何を言われても絶対に人を怒らないことと、『雑談の名手』にあったのではないか。前者は子供の頃からの母親からの教えで、じつは竹下は3人の娘に一度として怒ったことがなかったそうなのだ。後者は、相手を“おだてる名人”と言い換えてもいい。おだては、相手との親近感を高めるための鉄則とも言われる。持ち上げられて、悪い気を持つ者はいないということだ。竹下は、自然にこれができた。こうした如才なさが、『雑談の名手』のゆえんだ」
『雑談の名手』には、いくつもの語り草が残っている。

 例えば、竹下内閣当時、郵政大臣だった中山正暉が、のちにこう述懐している。

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