葬式仏教の台頭が仏教と死を結びつけた?非日常的な存在の仏教の今後の課題

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葬式仏教の台頭が仏教と死を結びつけた?非日常的な存在の仏教の今後の課題

日本の仏教が葬儀と結びついた"葬式仏教"の形態は、必ずしも堕落を意味するものではない。それでもなお、我々の日常において死は忌むべきもの、死者は日常から切り離される存在である。その死=葬儀のイメージが、宗教本来の役割といえる「死と向き合う」ためにマイナスになることがある。

■嫌われるお経

女子アナウンサーの特集バラエティー番組の中で、休暇中にお寺で修行したというアナウンサーがお経を披露した。場内が静かになり最初のフレーズを唱えたところでMCが「やめろ~!」とツッコミで潰して、場内爆笑の段であった。しかしこれは、お経=暗い、怖い、縁起悪いなどのイメージから成り立つ流れである。出演者も観客も、そのイメージを共有しているからこそ笑いにつながった。これがキリスト教の讃美歌であったならまた違った反応になったのではないか。お経は葬儀や法事で唱えられるものであり、日常空間においてはタブーとされていることが垣間見えたのだった。

■仏教の中で非日常的な存在の象徴 お経

死者のイメージからか、お経は怪談や心霊モノの類につきもののアイテムともなっている。筆者も若いころ、夜の峠を車で走っていた時、カーブの壁に書かれた「南無阿弥陀仏」の落書きがライトに浮き上がって肝を潰した記憶がある。これが昼間の都会であっても、唐突に壁に「南無阿弥陀仏」と抱えていたら、多くの人は薄気味悪く感じるのではないだろうか。

正確にはお経ではないが、「南無阿弥陀仏」いわゆる「念仏」は、六時名号といい浄土系仏教の中心になっている。浄土系寺院では常に念仏が唱えられているし、至る所に書かれてもいる。寺院の参拝者がそれらを受け入れられるのは、寺院が死者と交流する非日常的空間だからだ。非日常的空間を飛び出し、日常世界=生者の領域に入るとき、我々は死と死の恐怖に向き合うことになる。それがお経に対するある種の不快感を生み出すのだろう。


■そもそもお経は恐ろしいものではない 

お経は本来そのような恐ろしいものではない。「南無阿弥陀仏」の「南無」は「帰依する」という意味で、「阿弥陀仏」は極楽浄土の教主・阿弥陀如来のことである。阿弥陀仏は善人悪人関係なく、全て悩める衆生を救って下さるありがたい仏様だ。

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