田中角栄「怒涛の戦後史」(12)元首相・佐藤栄作(下)

| 週刊実話

 佐藤栄作首相の退陣後の天下取りに狙いを定めた田中角栄にとって、佐藤の悲願であり「花道」と考える沖縄の施政権返還は、なんとしても実現させる必要があった。それをもって、佐藤は後継に自分を推してくれるだろうとの読みである。

 しかし、ここに来て、やはり「ポスト佐藤」をうかがう福田赳夫が、佐藤に接近していると取り沙汰されるようになった。佐藤派ベテラン議員の一人は、当時の佐藤の胸中を筆者にこう語ってくれたものだった。
「佐藤は六分四分で福田を先に、そのあとに田中政権をとの思いがあった。佐藤と福田は、ともに官僚出身で気心を通じており、福田は田中より年齢的にも上だったからだ。しかし、佐藤政権は実質上、田中と福田の両雄に支えられていたことから、佐藤はこのバランスを崩すことを極力避け、得意のチェック・アンド・バランスの人事で、どちらを後継者に考えているかは、最後まで誰にもシッポをつかませなかった。ために、田中も福田も、必死で佐藤政権を支え続けたのだ」

 現首相の安倍晋三に抜かれるまで、7年8カ月という戦後最長の首相在任記録を持っていた佐藤だが、長期政権を維持する秘訣の一つに、人事の巧みさということがあった。

 その手法は、先のコメントにも出ていたようにチェック・アンド・バランスの「均衡人事」であった。佐藤政権を支える有力議員の“突出”を抑え、時に干しては引き上げ、引き上げてはまた干すという手法である。突出しようとすれば干されることから、結局、誰もが佐藤に逆らえずで、ひたすら長期にわたって佐藤政権を支え続けたということだった。

 この佐藤の手法はビジネス社会でも見られ、人事に巧みなトップリーダーが権力を温存し、その地位を長く保つケースが多いことに似ている。例えば、佐藤は田中を幹事長に就けると福田を大蔵大臣に、田中が幹事長を降りるとその後釜に福田を据え、絶妙のバランスを取ったのである。

 そうしたうえで、佐藤内閣最後の人事となった昭和46(1971)年7月の第3次改造内閣で、佐藤は福田を外務大臣に、田中を通産大臣に起用し、両雄のバランスになお腐心した。福田には「沖縄返還」を確実に着地させる役目を、田中には米国が怒りの声を強め、難航している「日米繊維交渉」の妥結を担わせた格好だった。

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