田中角栄「怒涛の戦後史」(12)元首相・佐藤栄作(下) (2/3ページ)

週刊実話



 とくに、この繊維交渉の決着がなければ、「沖縄返還」がスムーズに運ばぬ可能性もあり、田中としてはなんとしても妥結させなければならない立場にあった。佐藤の退陣は「沖縄返還」をもってというのが既成事実化されており、この交渉の成否は自らの総裁選にも影響することから、田中としてはこの期に及んでの通産大臣就任は、人生の勝負どころと言ってよかったのである。一方の佐藤は、その成否はもとより田中の腕力に懸けたということだった。

 ちなみに日米繊維交渉とは、昭和44年12月、時の米国のニクソン政権が、繊維製品の対米輸出の伸びに反発、日本に対して輸出の自主規制を求めてきたことから始まった交渉である。

 ところが、日米双方の主張には隔たりがあり、田中の前の通産大臣だった大平正芳、宮澤喜一が3年かけて交渉に当たったものの、いっこうにまとまる気配がなかった。

★日米繊維交渉で見せた「凄腕」

 しかし、田中通産大臣は、なんとこれをわずか3カ月あまりで決着させてしまったのだった。

 米国側は、「米国全体の貿易収支が悪化しているのは、突出している対日貿易赤字が原因だ」と激しい批判を浴びせてきた。対して田中は、「角栄流」交渉の特徴である常に相手の論理に合わせ、相手の土俵に上がって理路整然と切り返したものだった。

 結果、米国は日本側の最終案をのむことで、足掛け3年余の難航を重ねたこの交渉は決着をみた。その決着した最終案について、田中は「われわれは負けはしなかったが、主張しているだけでは解決しない。繊維問題をこれ以上こじらせたら、日米関係がいよいよ悪化する。理不尽ではあるが、相手の要望ものまねばならん。その代わり、日本の業界を救済する」としたのである。

 すなわち、当時のカネで2000億円を繊維業者損失の補償として出し、国内業者とも手を打っての交渉、妥結ということだった。ただし、「田中はイト(繊維)を売って、ナワ(沖縄)を買った」との陰口はあった。

 一方で、交渉に同席していた通産官僚は、田中の交渉能力の凄みを次のように語っていたものである。
「交渉能力の高さには、さすがに度肝を抜かれた。気迫の凄さ、理解力、頭の回転の速さ、弁論の切り口、どれをとっても当代一流。
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