田中角栄「怒涛の戦後史」(13)創価学会名誉会長・池田大作

| 週刊実話

 田中角栄が政治的権勢を確立し、天下を取る過程で、創価学会との「蜜月」が色濃かったことはあまり知られていない。もっと具体的に言えば、田中と創価学会会長だった池田大作(現・名誉会長)、そして、公明党とは長きあうんの呼吸で、互いに支え合う形になっていたのである。

 創価学会が支持母体となる公明党は、それまで参院では議席を有していたが、昭和42(1967)年1月の総選挙で初めて衆院に候補者を立て、一挙に25人の大量進出を果たした。このときの自民党幹事長は福田赳夫(のちに首相)だったが、次の2年後の総選挙では田中が3期目の幹事長として返り咲き、選挙の指揮を執っていた。

 結果、無所属当選者を追加公認した自民党は、じつに300議席を超える大勝となり、公明党も前回の倍増近くの47人の当選者を出した。田中には近い将来の総理大臣間違いなし、との見存が広がり、「日の出の幹事長」との声も出たものである。

 そんなさなか、田中は東京・信濃町の創価学会本部に招かれ、時の池田会長と会談の機会を得た。同席していた秘書の早坂茂三(のちに政治評論家)は、帰りの車の中で、田中が池田の印象を次のように語ったと明かしている。
「しなやかな鋼だ。煮ても焼いても食えない」

 すなわち、これは田中特有の言い回しで、大組織をまとめ上げてけん引する人物として、なるほど相当の「政治家」でもあると見抜いたようであった。今日、安倍晋三政権のもとでの自民・公明両党の連立関係も、さかのぼればこうした田中と池田の初会談に、端を発しているのである。

 そして間もなく、田中と池田の間に、持ちつ持たれつの関係が生じた。昭和45年の「言論出版妨害事件」であり、田中は幹事長として5期目のさなかであった。

 この事件は、その前年に明治大学教授でジャーナリストの藤原弘達が、「創価学会を斬る」と題した本を出版しようとしたことに端を発していた。藤原は公明党と創価学会との関係が「政教分離」の原則にもとるなどとして、文字通り学会を“斬った”のだが、これに公明党が出版中止の「圧力」をかけたとされるものであった。

 当時、藤原への説得の窓口に立ったのが、まだ新人の衆院議員で、のちに公明党委員長になる竹入義勝だった。

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