田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(下)

| 週刊実話

 ノーバッジで田中内閣の官房副長官に就任した後藤田正晴は、昭和49(1974)年7月の参院選で、陣営から大量の選挙違反を出した揚げ句、落選した。警察庁長官として警察のトップを経た後藤田が、選挙違反を出すとはもとより失態この上なく、ましてや人気絶頂にいた田中角栄首相のお声がかりの候補だっただけに、後藤田の田中への負い目は高潔の士だけになおさらだった。

 この屈辱は、選挙で晴らすしかない。後藤田は次の国政選挙となった昭和51年12月、当時の中選挙区、徳島全県区から衆院選に出馬した。後藤田の選挙戦を取材した政治部記者の、こんな述懐がある。

「後藤田は前回選挙における“殿様選挙”から一変、この選挙までの約2年間は、妻と長男ともども県内の山間部までほとんど歩いた。それまでの『頭が高い』『言葉遣いが傲慢』『温かみに欠ける印象』といった批判を払拭するため、ひたすら低姿勢に徹していた」

 結果は、大物の三木武夫に次ぐ2位での当選だった。

 この選挙を経て、それまでの後藤田評「座標軸にブレがない」「予断・偏見のない情報収集と分析能力、情報管理の凄さ」「詰めの厳しさ」といった冷徹さのみならず、言うなら選挙戦の中で人の心のうつろいを知ったことで、一皮むけたということである。このことは、田中にとってもさらに強力な“使える部下”を得たことにもなった。

 それが生きるのは、やがて田中が金脈・女性問題で首相退陣を余儀なくされ、続くロッキード事件の表面化で自民党内外からバッシングを受けたさなかである。田中としては、政治家としてなんとか権力の温存を図りたい。そのためには、自らの影響力が及ぶ政権の誕生が条件になる。自身が退陣した後の三木武夫、福田赳夫の政権誕生はやむを得ないとしながらも、そのあとは、言うなら「角影」政権の奪還を目指した。

 福田のあとの大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の三代の政権が、まさにそれにあたった。とくに、大平と中曽根は凄まじい自民党総裁選をくぐり抜けなければならず、ここで生きたのが全国警察の総元締めだった後藤田の役割だった。

 警察は、各所に交番を持つ。

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