『週刊大衆』で大好評連載中の『コント赤信号 渡辺正行 スター芸人たちの“笑いと涙”』の特別編、渡辺リーダーとお笑いコンビ・爆笑問題の2人との対談の後編。
前回に引き続き、30年来の関係の両者が、雌伏の時代、お笑い論、そして爆笑の“禁断話”まで熱く語ってくれた!
※ ※
ーー1988年、リーダー主催の『ラ・ママ新人コント大会』でデビューした爆笑問題は、順調に仕事をこなしていたものの、90年に所属事務所から独立後、不遇な日々を送ることになったんですよね。
渡辺 大変な時期は、どれくらいあったの?
田中 3年弱ですかね。
渡辺 長いよね。
太田 まあ、今考えると、そうですね。
田中 すっかり仕事がなくなって……。テレビはNHKとテレビ東京だけは出演できたんですけど、それ以外は一切、ダメでした。
渡辺 辛かっただろうね。
田中 月1回、『ラ・ママ』で漫才をやって、たまに、NHKとテレビ東京。だから僕、昼間はずっとコンビニでバイトしてました。完全に、なじんじゃいましたよ。
渡辺 言ってたもんね、「“店長にならないか?”と誘われた」って。
太田 あのときは唯一の出番が『ラ・ママ』だったから、ホントにありがたかったです。
渡辺 うちは全然問題ないからね。