田中角栄「怒涛の戦後史」(20)元官自民党幹事長・野中広務(上)

| 週刊実話

 田中角栄という人物は、使える人間とそうでない人間を峻別した。田中派入りを望む者であっても、使いものになりそうもない人間には、他派閥入りを勧めることもあった。

 逆に、使えるとなれば積極的に勧誘、有力ポストに就けてさらなる成長を促すといった姿勢である。この連載に登場した金丸信、梶山静六が後者に該当し、この野中広務もまたその一人であった。

 田中と野中は、ともに成績はよかったが、家庭の事情で学歴は田中が新潟県二田村の尋常高等小学校卒、野中は旧制の京都府立園部中学卒にとどまった。

 田中は15歳で上京、土工などの職を転々としながら、やがて全国施工実績で50位以内に入る土建会社を興して事業に成功、それを足場に政界入りを果たし、やがて「今太閤」「庶民宰相」として天下を取った。

 一方の野中も、田中同様の「叩き上げ」である。中学を出ると大阪鉄道局に勤め、地元の青年団活動を通じて政治を厳しく見詰め、26歳で京都府園部町の町議となった。その後、園部町議会議長をやっていた32歳のときに、当時、39歳で郵政大臣に就任した田中と出会うことになる。東京・目白の田中邸における陳情であった。そのときの田中の印象を、野中自身が次のように記している。

「園部町の郵便局が老朽化して困っていると、建て替えのための陳情書を持って伺った。『郵便局か。よし、分かった』で、ろくに私の説明も聞かず、傍らの秘書に『早急に処置』と書いたメモを渡し、『すぐ役所に届けろ』と言っていた。その翌年6月に、田中さんは内閣改造で郵政相を辞められていたが、補正予算にはちゃんと郵便局の改築費用が入っていた。

 その後、融資を受けに大阪郵政局へ出向いたのだが、局長にこう言われた。『改築の順番は、ホントはあんたんところは3番目だったんや。あんたが田中大臣のところへ行ったことで、順番を狂わせてしもた』と。

 田中さんは一町議の私でも丁重に扱い、責任を持って誠実に対応してくれた。政治家かくあるべきと思った」(『新潮45』2010年7月号=要約)

 その後、野中は町長から京都府議、京都副知事を経て、昭和58(1983)年に中選挙区時代の〈京都2区〉から衆院補欠選挙に出馬、初当選を飾っている。57歳であった。

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