明智光秀が愛した「汁講」とは? 戦国“酒豪列伝”「接待の作法」を徹底解説

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明智光秀

 名だたる戦国武将のもとには、美食家のイメージがつきまとう。全国各地から、さぞや豪華な献上品が届けられたことだろう。では酒はどうか。歴史家の河合敦氏、戦国芸人・桐畑トール氏とともに酒と接待にまつわるエピソードを紹介しよう。

 上杉謙信は酒好きで知られる。なにせ、謙信が馬に乗りながら酒を飲んだとされる「馬上杯」なる、特大の杯が山形県米沢市の上杉神社に残されている。3合は注げる直径12センチの代物だ。

 現在では、米どころ、日本酒どころとして有名な越後・新潟だが、戦国時代の新潟は米どころではなかった。京都で清酒が作られていたが高価で貴重なものだったため、謙信の飲んでいた酒は、米を発酵させただけの白いにごり酒だったようだ。

 ライバルの武田信玄をはじめ何十回と戦の先頭に立って戦いながら、自身を毘沙門天の化身と信じる謙信は、一度も矢玉に当たらなかったと言われている。

 桐畑氏が苦笑まじりに言う。

「馬上杯の酒に酔ってゆらゆらしてたのか、酒でハイになっていたからできたことでしょうね、いちばんラリッてる人が先陣を切ってる感じで」

 梅干しを肴に飲んでいた生活習慣がアダとなって、謙信は脳卒中で厠(かわや・トイレ)で昏倒、49歳で死んでしまった。

 謙信の辞世の句は「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」。酒とともに駆け抜けた人生だった。

 謙信が東の酒豪の代表とすれば、西の酒豪は、秀吉の従兄弟で賤ケ岳七本槍の一人、武闘派の福島正則だ。伏見城の屋敷に訪ねてきた黒田家の重臣・母里太兵衛(もりたへい)と酒の飲み競べをして、秀吉からもらった由緒ある名槍・日本号を酔っ払って褒美に渡してしまった。この一件は、貝原益軒の「黒田家臣伝」に残り、福岡では「酒は呑め呑め 呑むならば、日の本一のこの槍を〜」で有名な「黒田節」のモデルになってしまったのだ。

「この人の酒は、記憶をなくしてしまうブラックアウトの症状ですね。酒に呑まれるタイプ。福島正則は、ほんとは酒に弱かったのかも」

 桐畑氏はこう言って、酒にまつわる武将のしくじり逸話を紹介した。

「河越夜戦で有名な北条氏康は『酒は朝飲め』って言ってたそうです。

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