明智光秀が愛した「汁講」とは? 戦国“酒豪列伝”「接待の作法」を徹底解説 (2/3ページ)

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『朝飲めば飲みすぎることがないから』と。氏康は、戦国時代から江戸初期にかけて醸造され、北条早雲が命名したという当時のブランド酒『江川酒』を飲んでいて、京都にも送っていたと言われますから、酒の飲み方を知っていたんでしょうね」

 伊達政宗も酒好きが高じて、仙台城内に酒造屋敷を作っていたといわれ、大和国から酒造りの職人を招いて酒蔵などを作っている。ただし、政宗は京都三条の館に滞在していた時には連日公家らを招いて酒宴を催していたが、二日酔いで徳川2代将軍・秀忠との約束をすっぽかしてしまったりと、酒でのしくじりは福島正則に引けを取らない。

 戦国時代の接待料理の一端がうかがえるのが、中国地方を治めた毛利輝元が、豊臣秀吉に正式に臣従するために京都に上洛した時に、秀吉や重臣から受けたメニューだ。これは「毛利輝元上洛日記」に残されている。かつて、毛利家とは一戦を交えた秀吉だったが、四国征伐や九州征伐に協力した輝元とは友好関係を築くようになっていたから、その接待料理も贅を極めたものだった。

「中でも、鮭の焼物、御汁 雁に松茸入り、香の物などに加えて、『鮭の氷頭(ひず)なます』が目を引きます。鮭の頭の軟骨部分が氷のように透き通っていることから『氷頭』と呼ばれ、それを膾(なます)という酢の物にしたもの。鮭は北国で捕れる魚なので、中国地方出身の輝元にとってはなかなか味わえない魚の珍味だったに違いありません。『御汁 雁に松茸入り』など、ものすごくお金をかけて豪華な食事でもてなしていたことがわかります」(河合氏)

 ふだんの食事は質素でもここ一番の接待、饗応はぜいたくなものだったのだ。

 明智光秀は「汁講」と称して、みんなで味噌汁の鍋を囲むパーティーみたいなものを催していた。光秀が好きだったのは、野生の猪肉を煮込んだ味噌汁だったと言われ、正室の煕子(ひろこ)は、その黒髪を切って肉を購入していたという後日譚も伝えられている。

 桐畑氏が頬を緩めて締めくくる。

「猪は脂も濃いしパンチもあって、ほんとに美味です。

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